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ブックカバーで本を「包む」という事。


いつの頃からだろう。ブックカバーが好きになった。

自分で買ったもの、人から頂いたもの、色々あって、今7種類位のブックカバーを持っている。

ブックカバーで文庫本を包む行為は、ガサツな私にとってはかなりレアな、「丁寧な行為」と言える。20代の頃はそれこそ、外表紙がボロボロになる位雑に扱いつつも、気に入った文庫本は繰り返し読んだのだが、いつの頃からか、本を大切に扱いたくなった。

何を読んでいるのかを他人に見られなくないのもあるが、本をお気に入りのカバーで「包む」事で、その本そのものを、更には、本を読む時間を、大切にしている感覚だ。


読む本を変える毎に、ブックカバーコレクションの中から一つを選ぶのだが、実は、ずっと同じカバーを付けたままにしている本が2冊ある。その本には、そのカバーがとても似合っているような気がするからだ。


1冊目は、原田マハさんの「ジヴェルニーの食卓」だ。

フランスの印象派画家達が登場するこの本は、読み始めて数分で、私をその時代に誘う。

数年前、南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂を訪れたのは、この本の中の短編小説「うつくしい墓」がきっかけだ。写真撮影が禁止だったので、その時の写真は残っていないが、この小説を読むと、礼拝堂の白い光が私の目の前に蘇る。

当時、苦労して得た仕事がようやく起動に乗り、自分の都合で長期の休みを取っても支障が出ないと、ようやく思えた頃だった。7年ぶりの一人旅だった。

あの礼拝堂の白い光は、大切な記憶であると同時に、私の希望の象徴だ。

この本は、手作りサイトで購入した、小鳥とバラの刺繍が美しく、手触りがふっくら優しい麻布製のブックカバーが包んでいる。


もう1冊は、村上春樹さんの「職業としての小説家」だ。

これは小説ではなくエッセイだが、村上春樹さんの小説家としての哲学のようなものが、素人でも理解し易い言葉で綴られている。この本を読んだ時、小説家に限らず、職業人としての普遍的な原則のようなものを感じ、私にとっての宝物の一冊となった。

この本を包むのは、牛革製の黒いカバーだ。つるりとした手触りの加工がされており、質の良い革製だが、重厚というよりは、上品で軽やかな仕上がりだ。

このブックカバーは、尊敬する方から、私のキャリアの節目に頂いたものだ。その方からは仕事だけでは無く、生き方も影響を受けた。

だから、このカバーに包まれたこの本を広げると、私はどこか気持ちが引き締まる。自分を励ましたい時、原点に戻りたい時、この本を手にするような気がする。


私にとって、本をブックカバーで包むのは、本だけで無く、それに伴う過去の自分の記憶や、大切にしたい想いを、そっと大切に包む、という行為なのだ。そして、少し神妙な気持ちで、その本を開き、その本をじっくりと味わう。


その他、毎回付け替える用のブックカバーも、思えば色々使い分けている。少しリラックスしたい時に包む、ブルーのストライプの布のカバー、じっくり向き合いたい本を包む、深緑色の皮のカバー、クリスマスの時期に読みたい本には、サンタの刺繍が可愛いカバー、といった具合だ。

こうしてみると、私にとって読書は、本そのものから得るものは勿論だが、その時間に意味があるのだなと思う。自分と向き合う時間と言ってもよいかもしれない。


今、デパートの中の書店コーナー近くのカフェで、このnoteを書いている。帰りにステーショナリーコーナー、久々に寄ってみようかな、と思う。

でも、きっと買わない。

私は買い物好きだけど、洋服と違って、ブックカバーは余程気に入った物でない限り、滅多に買わない。ブックカバーは高いものでも、値段はたかが知れているのだけど。

そういう点も、私にとってブックカバーには、何か特別な意味があるような気がしている。



とりのこ













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