パターナリズムってなに?
子どものころを振り返って、「ゲームばっかりしてないで勉強しなさい!」と親から言われた経験はないでしょうか。当の子どもからしてみれば、「勉強なんかよりも楽しいゲームをしていたい」という気持ちでしょうが、こう言われたらそういうわけにもいきませんね。
さて、そうした経験をしてきた子どもたちも大人になり、ふと疑問に思うこともあるでしょう。
「なぜ親が自分の子どもに勉強させることは正当化されるのか」と。
もっとも、これは勉強に限らず、何か習い事をさせたり、塾に通わせたり、よりいい学校へ進学することを強いることにも言えることです。
「自分の子どもだから」なのでしょうか。きっと、「子どものためだから」という親がほとんどでしょう。子どものためを思い、心を鬼にして言っているというかもしれません。
この「子どものため」という理由がパターナリズムです。パターナリズムは他者に干渉する理由のひとつとして理解することができます。
パターナリズムとは
はじめに、辞書を引いてみましょう。
つまり、「子ども(他者)のため」の干渉・介入を正当化するのがパターナリズムということです。
子どもはゲームを続けたことによって被る害を認知することは難しいでしょうし、同様に勉強することによる恩恵をその時点で得る(感じる)ことも難しい状態にあります。そのため、それらを知る大人として、保護者が子どもの行為に対して干渉することには、正当な理由が認められる、ということです。
もう少し平易な説明も見てみましょう。他者に干渉する理由のうち、以下がパターナリズムです。
こちらの説明の方が飲み込みやすいですね。
付記
さて、教育について考えてみましょう。
教育は極めてパターナリスティックな行為としてとらえることができます。
日本では保護者に、子どもを学校へ通わせる義務が、地方自治体には学校を設置する義務があります。教育は国家の成員に対して、自由を制限するものであるが、その効果をかんがみて、正当化されているのです。
ここでいう効果とは、一人一人が社会において自立できること、とでもいえるでしょうか。
教育の権利、義務については日本だけではなく世界的に、しかも昔から多くの議論がなされ、研究が蓄積されています。
廣松渉・子安宣邦・三島憲一・宮本久雄・佐々木力・野家啓一・末木文美士(1998)『岩波 哲学・思想事典』岩波書店
澤登俊雄(1997)『現代社会とパターナリズム』ゆみる出版
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