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スタンスとしての「当事者」と研究 #2

2024/06/11
 小松原(2022)を読みながら、思ったことがある。「当事者」の気持ちを「非当事者」が理解することはできない。でも、「あなたにはわからない」と言い捨てて、対立を煽ることは受け入れられるものではない。だからこそ、「会話」を終わらせてはいけないのだと思う。ここで言う「会話」とは、時間的空間的を超越した、ローティー的な「会話」である(朱 2023)。つまるところ、私が当事者でありながら研究を行うことは、「たまたま当事者が研究を行っている」にすぎず、同時に、より善いあり方、「公正」を目指すからに他ならない、とまとめられよう。

2024/06/12
 なぜ当事者が研究をするのか、という問いに対する回答が一つに収束しないことは認める必要がある。ここまでいくつか述べてきたことは、全てが私の内面から溢れ出る、見るに耐えない、かろうじて言語化された思考の一部に過ぎないのである。
 さて、昨日小松原(2022)を読み終えたので、感想を交えつつ改めて自分の研究における研究者としての「当事者性」を考えたい。それは、研究者としての研究に対する立ち位置であり、スタンスである。すなわち、何度も言うように、「当事者」であるから論理に歪みが生じることは全力で避ける。また、現時点では、これから書くことになる修士論文それ自体の内容に含まれることもないかもしれない。しかし、この問題は、論文の問題の所在に深く関わるものであり、それを支えるスタンスなのである。故に、当事者性の問題は私にとっての研究に挑むための蟠りの一つであり、乗り越える必要があるのである。
 問題の所在に関してより一般化して言えば、目的、研究課題、方法、結論という論文の公正を貫く骨子であり、それらは、問題の所在を出発点として、演繹的に構築されることが理想であろう。すなわち、研究計画を立てる上で、問題の所在の手を抜けば、その研究の意義や妥当性に説得力を持たせることは容易ではないように思う。もちろん、これは私の研究室でのやり方なのかもしれないが。さて、話を戻すと、当事者である/あった研究者がその経験を出発点としてけんきゅを行おうとする場合、その距離や立ち位置、すなわちどこから何をみて何を見ないのか、が説得力を持つ論理として明確にされている必要がある。だからこそ、私にとって避けることのできない、それでいて不定形で重苦しい問題なのである。
 話を戻すと、当事者性に対するスタンスとして、私の一つの回答は、「過去の自分を否定する」ことである。それは私にしかできない。「過去の自分を否定する」とは、現在の私が抱えている後悔や蟠りを、過去の自分とともに過去に置き去ることを可能にする。今の私は、そうした後悔に苛まれることが少なくないからだ。過去があるから今がある、とか言った綺麗事は、時間の連続性という客観的指標において妥当性を持つが、人間の人格の成長という意味では連続関数ではないだろう。日連続的でいいんだ、ということを理解したい。そのための論理が私にとって必要なのだ。そして、私にとって必要なことは、ごく僅かかもしれないが、誰かにとっても必要であると信じている。

 もっと具体的に書こう。私が後悔しているのは、不登校になって学校に復帰しなかった(できなかった)ことである。その影響は現在までかなり尾を引いている。中学校の勉強は歯抜け状態だし、中学校の話題になると会話に参加することはできない。高校はかろうじて通信制に進学したが、大学受験に向けて勉強のギャップを埋めるのにとても苦労した。幸い、これは私がとても恵まれていたこともあり、大学でもなんとかついていくことができた。中学校の2年半の欠席はとても響いた。そして、私の人生は振り回されている。
 元不登校へのインタビューなどを読むと、「必要な時間だった」とか「あの時があるから今がある」とか調子のいいことが書かれている。支援者や保護者たちも、そうした声や、数少ない好例を持ち出して「学校に行かなくてもいい」とか「学校に行かないことは以上ではない」とか言うのである。私には到底理解し難い。「あの時があるから今がある」というのは、どんなに悪いことにも良いことにも言えるマジックワードに過ぎない。むしろ、そうやって過去を肯定しないと現在の自分の存在や生活を肯定できないのである。例えば「不登校経験によってものすごく苦労して、今も不安定な生活をしているけど、幸せです」みたいな。それは結果的には良いことかもしれないけど、本当にその生活を望んでいたのか、あるいは、そう成らざるを得ない状況に立たされているのか、本人ですら目を背けているようにしか思えない。
 だから、不登校経験者や、保護者、あるいは支援者たちがそうした言葉を使っていることを嫌悪する(もちろん、それが救いとなる人がいることを前提に認めうるものである)。そうした「綺麗事」を目にしたり、美談として不登校が語られる度に、私は私自身の経験と後悔、憎悪をどう咀嚼すればいいのかわからなくなる。私だけしかこの違和感を感じていないのか。約三〇万人いる不登校の誰もが、そんなにも綺麗な美談で自身の経験を振り返ることができるほど恵まれた人生を送れるのだろうか。不登校者のうち、現在でも、約四〇%の不登校者は支援を受けることができていない現状がある。
 それこそが、私が「過去の自分を否定する」ことを目指す理由だ。研究の出発点であり、目指すところであもある。

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