8~9月は作品をバーッと出した。 動画制作やWeb系、音声編集にストーリー作成。どれも手慣れたものだ。少なくとも人様にお見せできるクオリティまで叩き上げた。10年前の自分に見せたら「すごい!」と言ってくれるような作品ではあると思う。だから後悔はそれほどない。 ただ、今になって気付いた点が一つある。それは「オリジナリティが欠けている」ことだ。これは人に指摘されて初めて気づいたことである。 スキルが磨かれてきて、機材も整ってきた。実現しようと思ったことはたいていできるようにな
・いいね欄が消えた! すなわち良いものを見せびらかす機会が消えた! ・かといって引用RTは相手に通知が行くので、畏れ多い! ・ということでいい動画まとめやります。 縛り:「あんまり世間に見つかってない動画」縛り すっげ~いい すっげ~~いい 「時は常に私色です あれれ嘘だ嘘だろ!」←神歌詞 この「よかど」さん、昨年の12月まで淡々とボカロ曲を上げてたかと思えば、急にドキドキ文芸部のライブ配信をして、そのまま音沙汰がない Xアカウントとか、知りたいっす… 9秒って
今やってる作品があまりにもカッコ悪いし作っている自分も飽きているが、ここで止めると「途中で放棄する癖」がつく気がして続けている。本当に苦痛である。 それはさておき、今日はモヤモヤすることを耳にしてしまった。敬愛する人の悪い側面だ。思いもよらない人が思いもよらない言動を取っていた、ということを聞いてしまった。僕はその人のことを心底尊敬していたので、心が揺さぶられた。聞き苦しかった。 僕は自分を強く持つのが苦手である。基本的に他人をインストールすることで自我を保っている。「こ
心が浮き足だって眠れない夜。文章を書いて心を落ち着かせることにする。 私は単純で、楽しいことがあると興奮する。しかし、問題なのはその分だけ気が滅入ることだ。心が上がった分、下がってしまう。友達と意気投合した帰り道、自責の念と将来への不安に駆られる。そういう意味では僕はのんびり暮らしたいのかもしれない。刺激のない、真っ白い空間にいたい時もある。 でも、そんなことはできないと思う。 SNS疲れとか言っておきながら結局炎上している人物を調べて義憤を募らせるし、1人になりたいと言
ここ最近は、外から見ると立派な人間に見えるような生活をしている。新しい環境でもがきながら、友人もできてきて、結果も出している。自分でもよくやっているとは思う。 本当はここら辺で一度自分の悪いところを書き並べておいて下げておくのが良いと思うが、そんなレトリックはこの文章には不要だと思う。 このnoteを始めてからもう5年ほど経つと思う。その間、僕はずっと人間について考えてきたつもりだ。もちろんそこには過度な一般化や思い込みがあるこもしばしばだ。それ故に、自分の理論を実践的に
五月病の前段階にいるので、今はすごくやる気に満ち溢れている。 ホラーが苦手なので「検索してはいけない」も苦手である。昔は好奇心で調べていたが、今は専ら見なくなった。皆、あんな怖いものをよく見るなあと感心している。 しかし、そういったものが嫌いではない。むしろ好きである。私は破壊的なものも存在価値があると思っている。しかも「検索していけない」は心掛けさえあれば回避できるコンテンツだ。程よい塩梅で存在していて、だから今も楽しまれているのだと思う。 では、回避できない破壊的なコン
幸せなことが不幸なことよりも人を傷つけるか。それは私には断定しがたいことだと思う。不幸な境遇を嘆く人も、幸せな生まれを喜ぶ人も、それを見た人にどんな感情を与えるかわからない。嫌悪感を想起させる場合も、幸福感を想起させる場合もあるだろう。 とはいえ、他人に迷惑をかけるからといって自重するのが必ずしも良いことでもない。行きすぎた配慮は、時に存在しない人にさえ気を配る。そのような無意味なことはする必要がない。 結局、常にバランスを探るべきだ。時には過度に進み、そして時には不必要に戻
「日記 : 」から始まるやつは、全然考えず書いてます。 ここ数年でいろいろ考えることがあって、考えている。とはいえ1年後に改めて内省すると「ザッコ❤️思考力よわよわ❤️人生経験薄すぎ❤️」と自責の念に駆られることもある。とはいえ、その時々でできる限りのことをやったらいいので、後悔はしない方針だ。 最近は「合わないやつに近づかない」ということがわかってきた。 これが案外難しかった。(なんか話し合えばわかるんじゃないか…)などと思っていた。でも、そういう問題ではない。相手も自
「一枚絵からストーリーを読み取れない人々」がいる。かくいう僕もその1人だ。そんな人々の特徴はいくつかある。 例えば美術館や展覧会に行ったときを考えてみよう。その時に絵を見ることになる。そんなとき、概して僕は絵より解説文を見ている時間の方が長い。なぜなら絵の意図や文脈を把握しようとしても、絵の内容を汲み取れないからである。 例えば、テーブルを囲んで人々の視線が交差している絵がある。僕はそこに事実を見出す能力はある。人数、テーブルの形状、口や目の開き具合を読み取ることができる。し
一年の計は元旦にあり : Integrate[1, t ∈ 一年] = 元旦 年末に浮かれて、来年の抱負を考えます。とはいっても最近は「やりたいことリスト」を作っている。 だからそれのいくつかをピックアップする形になるかなあ。 それではやっていきます。 ・ボカロ曲作る音楽理論は全くわからん。でも作りたい。ポエトリーリーディングとかならなんとかならない?無理? とにかく最近は韻をよくメモしている。 難しい。でも楽しい。なのでこれをなんとか歌詞にしてまとめたい。 ・地元
家族の話が出る。 今日は親の半分を失望させ、半分を喜ばせた日だった。 俺は人生の岐路に立たされている。今までの人生の中でもトップレベルな選択を迫られている。この一回で決まるほど人生はヤワじゃないが、それでも苦悶はする。 その余計な苦悩が邪魔をした。もちろん自分なりに努力はしてきたつもりだった。でも気の緩みがあったのも事実だ。かつては余裕だと思っていた目標が、次第に現実味が薄れていき、ついに遠くなってきてしまった。 悩むことで停滞し、停滞することで悩む。時によっては無意味なこ
映像制作こと、人生一番搾りの気持ち悪い汁。僕はそれが好きである。 うごくメモ帳の時代から、動画にドハマリしていた。 Southern Crossに合わせて棒人間が戦うPVとかレモンTさんの大ボケ日誌とか。vs棒人間シリーズとか100万あったらとか。成長期の脳が壊れるほど見た記憶がある。 そこからPSvitaでniconicoを見まくった。Bad Apple!!の影絵PVは今でもモノマネできる。 この頃にゆっくりムービーメーカーで動画を作ってみた。Minecraftの村人を埋
最近はもうてんでダメである。気持ちはある程度晴れやかだが、状況は悪化している一方である。さらには、それを改善する気も毛頭ない。このまま未知の病に罹患して、体が爆発するみたいな、そんな破滅が起きるだろうという一縷の望みにしかすがれない日々である。 すべきことは毎日あるが、キャパシティはとっくにオーバーフローしている。それがバレないように、つつがないふりをしている。それも永遠には続かない生活だ。いつか終わりが来て、すべてが露呈して、そして努力は水泡に帰す。失望されてエンディング
道を歩いていた。 ジリジリと照り返す光。むわっとした熱気。水筒は切らしてて、熱中症寸前だったと思う。一人で道の真ん中、蝉時雨で心がいっぱいになった。 そのあと、電車に乗って、クーラーの下で涼んでいた。強冷車を求めた友人たちはみんな高望みだったと思う。帰り道だったからもう用事はない。悶々とその後のことを考えていた。SNSは苦手になっちゃったから、音楽を聴いて、呆けていた。 「なぜ―――」僕の頭に一つの疑問が浮かんだ。「なぜ僕はずっと虚栄心を抱えているんだろう」 自分は昔から他
良い人間と悪い人間の区別ができるようになりたい、と願ってから1年以上が経った。ここでの善悪はあくまで私のポリシーの一つである「人を傷つけるか否か」を基準としている。そういう意味での悪者に会ってから、十分すぎる期間を経た。その人は、盗み聞いた話によると、今も生きているらしい。 そもそもだが、この良し悪しは私が決めた恣意的な評価である。法律に則っていない自分勝手な指標による峻別である。したがってこれを他人に押し付けたり訴えかけたりするのはナンセンスだ。 逆説的に、他人から自分へ
苦手なものは、いずれそれになるから苦手なのかもしれない。最近そう思うようになってきた。認めたくはないけど、他人がそうやって嫌っていたものになってしまうことを散々見てきた。今も見ている。 あらかた人間の欠点は語り尽くされていて、共有され尽くしている。それなのに人の欠点がいまだに語り草なのは、克服するのが難しいからだと思う。知っていても行動に移せない。だから、易きに流されるとすぐ欠点が剥き出しになる。渦中の自分では気づかない弱みが露呈する。むしろ他人からは際立って見えるというの