道を歩いていた。
ジリジリと照り返す光。むわっとした熱気。水筒は切らしてて、熱中症寸前だったと思う。一人で道の真ん中、蝉時雨で心がいっぱいになった。
そのあと、電車に乗って、クーラーの下で涼んでいた。強冷車を求めた友人たちはみんな高望みだったと思う。帰り道だったからもう用事はない。悶々とその後のことを考えていた。SNSは苦手になっちゃったから、音楽を聴いて、呆けていた。
「なぜ―――」僕の頭に一つの疑問が浮かんだ。「なぜ僕はずっと虚栄心を抱えているんだろう」

自分は昔から他人との比較が好きだった。
あれと比べてこうだから。でもこれと比べたらあれが。それが足りなくて、これが多すぎる。あいつにはそれしかない。自分にはこれがある。お前にはこれがない。
その度に劣等感と優越感を覚えて、それを精神の支柱にしてきた。はっきり言って、そのためにしか行動していなかったと思う。今もそうじゃないとは言えない。

でも、僕はずーっとより良い生き方を模索してきたつもりだ。人のことをたくさん見つめて、参考にして、世界のあり方を知ろうとしてきた。今もあんまりわかってないから、もっとわかりたいと思っている。
そうしたら今日、ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞こえた。
自分はこの虚栄心を存在意義だとしていた。でも、もう少し、捨てられるかもしれない。本当にそんなことができたら、自分は変わるのだと思う。その是非はわからない。

だけれども、もし、虚栄心を意義としてきた自分が、それを捨てたら、一体どうなるんだろう。
インターネットでこんな言葉を見たことがある。「年齢ごとに人の動機は変わる。20代は劣等感」この先は忘れた。ネットの言葉をうのみにするつもりはないが、不思議と腑に落ちる。じゃあ、この先は一体どうなるんだろうか。

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