人(不定)

今やってる作品があまりにもカッコ悪いし作っている自分も飽きているが、ここで止めると「途中で放棄する癖」がつく気がして続けている。本当に苦痛である。

それはさておき、今日はモヤモヤすることを耳にしてしまった。敬愛する人の悪い側面だ。思いもよらない人が思いもよらない言動を取っていた、ということを聞いてしまった。僕はその人のことを心底尊敬していたので、心が揺さぶられた。聞き苦しかった。

僕は自分を強く持つのが苦手である。基本的に他人をインストールすることで自我を保っている。「この人みたいになりたい」を紡いだパッチワークが僕である。
その分、インストール元を著しくリスペクトする。自分の生きる意味であり人生の価値そのものだと信じ込む。その人を理想像として生き、奉仕する。現に僕は昔、クローズドな空間で二次創作を作ることを趣味としていた。その目的はその人を崇拝するためである。今の創作の目的も、それを引き継いだにすぎない。

とはいえ、それは持続可能な生き方ではない。というのも、人は完璧ではないのだ。ほとんどパーフェクトな人間は存在するかもしれないが、完全ではない。
もし完璧な人間がいたとする。すると、それは成長しない人間である。成長しない人間が完璧な人間とは言い難い。よって矛盾に陥る。議論が雑だが、少なくとも完璧な人間はある視点のある瞬間においてのみ成立するものである。それは刹那的な机上の空論でしかない。

だから、私の生き方は時にバランスを崩しがちである。そのタイミングは、尊敬する人の不完全な側面を見つけたときである。数年前はそれによく思い悩んでいたものだ。ただ、今となっては、立ち直りが早くなって、図太くなった。心持ちが特定の1人に依存しなくなってきている。とても良い。

そもそも、陰口や悪口及び告げ口というものは何の効果も成さないのである。それの良し悪しを論じるのもナンセンスだ。強いて言えばそれを言う人が卑怯なのであり、聞いた人や悪意の対象は全くもって無関心であるべきだ。

時に「ひょっとして相手に迷惑かけていないかな…」と不安がっている人が居る。僕も同様に心配になることがあり、共感できる悩みだ。しかし、それは無意味な心配事だと確信している。自分が精一杯気を使い、相手を慮り、その上で相手が否定的なサインを出さないならば、もう相手を信用すべきなのである。それこそが健全なコミュニケーションだと考えている。

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