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今日も何かに後悔していますか


さんざん迷って考えぬいた末の決断が結果として失敗だったとわかるのは、

えてしてずっと後になってからであるものだ。


「その時のじぶんはこうだった」

と割り切れるのなら強い。


でも


「あの時、逆の選択をしていれば」


そういう根拠のない後悔が押し寄せて逃れられない時、人は苦しむ。



「あの時、踏みとどまれていたなら」

「もっと人を大事にしていれば」

「自分に素直になれていたら」


・・・。




がしかし、と考える。

もしあの日の自分に会って何かを伝えられるとして

その選択をしようとしている自分に、はたして


「それはまちがいだ」


などと断言できるのだろうか。

苦しんで、悩みに悩んだ末にその答えを出した「その時の自分」は

その言葉を素直に受け入れるだろうか。


きっと重要なのは、

その時どういう選択をしたかよりも

自分の下したその決断に対し、その後どう自分が責任をとって行動したか

につきるのでは、

ということである。


もしその時に「正解」だった方の選択肢をとっていたとして、

それがそのまま「正解」であり続けるかは誰にもわからない。

その「正誤」が何の拍子に逆転し、

「あぁ、あっちを選んでいれば」

とやはり後悔をしている自分がそこにいない

なんて言い切れるだろうか。


人生は選択であると誰もが知っている。

自分の選択に責任を持つ覚悟がないのなら、

それを決断とは呼ばない。




あの日の自分に恥じないくらい毎日全力で走りぬいていますか。



あの日の自分に誇れる日は本当に来ないんですか。




今の自分が不本意なのは、

過去の選択ミスによるものでも、ましてや環境や誰かのせいでもない。


そして

後悔を後悔のままにしているのは自分自身だ。


だから

後悔を正解に変えられるのも自分自身なのだ。


過去のあらゆる選択を「まちがい」だったと思い込み

自分を呪い続けるだけの日々。

何度も重々しく決断し、そのたびに何かを捨て、

失ってそれらはやはり必要だったのかもしれないと後悔する。

なんてめめしい

そんな人生はもうごめんなのだ。



わたしはわたしのあらゆる選択を支持する。

どこまでも、それらの決定にいっさいの責任をもつ。

そしてその先にあるのが、

その選択に対しての真の答えだということ。





なんて当たり前のこと、


今さらだけどやっと気づけてよかったねおまえ。

って、ことで自分への備忘録にかえて。