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主体的且つ能動的な人生観の再構築について(前編)〜ぶっちゃけ人生ムズくね?〜

まえがき

ども。冷蔵庫のKyojinです。冷蔵庫というのは大学生と浪人生からなるインカレサークルのようなもので、noteへの過激な投稿を主な活動内容としているヤクザな集団です。噓ですわりと真面目に活動しています。Kyojinは未だ投稿4回目なのでまずは軽く自己紹介をば。京都の知の巨人(僭称)こと私Kyojinは、花も恥じらう大学一年生です。好きな調味料はナンプラーというタイの魚醤で、最近はわりと知名度も高くなってきたのかカ○ディーに並んでる種類が多くて嬉しかったりしてます。アウトドアとか結構好きで、今年は狩猟免許を取ろうと目論んでいます。さて今回は人生観について持論をひけらかそうと思います。具体的な例を交えながらゆっくり解説した後でざっくりと論旨を要約するので、手っ取り早いのが好きな方は前半は読み飛ばしていただいて〈要約〉以降のみ読んでいただいても構いません。


第一節~他人の言に縋るべからず~

人生はゲームだとか選択の連続だとか、努力すれば夢は必ず叶うだとか、或いは来世までの暇つぶしだとか、生き方について述べようとする言葉は数多くある。その中でもしかしたらしっくりくる言葉を見付けて、自分の人生はこれだ!と確信している人もいるだろう。不確かなものばかりの人生において幸福であるために、良さげな言葉に縋り付いて安心を得る心理は痛いほど良く分かる。しかしそれはほとんどの場合人生を豊かにしない。人から与えられたような、或いはどこからともなく拾ってきたような言葉を抱えて生き続けても絶対に幸せにはなれない。確固たる自我を持たずに何となく生きているあなたにも、いつか自分とは何かを問い直す日が必ず来る。受動的に、時代に流されるままに生きるのもひとつの人生だが、果たしてそれで満足してしまっていいのか。それよりも自分の在り方を自分で決める能動的な人生を送ったほうが、何倍も充実した人生になるのではないか。茫漠たる不安、なんとなくのつまらなさ、そういったモヤモヤを自ら考えることによって吹き飛ばせたらそれはなんと素晴らしいことではないか!だからこそ人の言葉に縋ってはいけない、と簡単に片付けてしまうのは少々強引なので、もう少し丁寧かつ客観的にその根拠を示す。

殆どの人にとって人生は、常にストレスがかかっているものである。勿論ストレス源は人それぞれで、都会の喧騒、体調不良、老いの実感、最近ではコロナ関連など枚挙に暇がない。しかしその中でも多くの人が特にストレスに感じているのは人間関係であろう。「あの人の何気ないあの言葉は本当は私を貶していたのではないか?」「今あの人はこちらを見て馬鹿にしたような笑みを浮かべなかったか?」「あの先輩/上司の偉そうな態度!部下/後輩を何だと思っているんだ…」或いは「僕はあの娘が好きだが、あの娘は僕のことなんかどうにも思っていないだろう」「彼の態度が最近冷たく感じる。浮気しているのではないだろうか…」など、こういった暗い気持ちになったことのない人などいないに等しいはずである。そしてこうした人間関係のストレスは否が応でも自己を相対化させる―他人を意識するということは即ち相対的に自分を意識するということに等しいのだ。自我が絶対的なものとして存在しているという前提が瓦解するのは恐ろしいことである。ゆえに人間関係のストレスは「何かによって自我を絶対化したい」という欲を生じさせ、それが満たされないという事態こそが精神の最も重大な危機(の一つ)なのである。

さて、前述した「良さげな言葉に縋る」というのは、換言すれば「他人の言葉によって自己を絶対化しようとする」ことである。しかし思い出してほしい。自己が相対化されたのは他人によってであることを。従って、他人の言葉によって自己を絶対化するということが不可能なのは明白であろう。他人は、いくら親しい人でも他人に過ぎない。おかれた境遇も感性も何もかもが違うのであるから、その人の人生における金科玉条がどれだけ魅力的に輝いていても、残念ながらそれはあなたの境遇も人格も反映していないのである。これにより、自力で自己の絶対化を図る必要性が示せた。

(補足)誤解を防ぐために言及しておかねばならない事がある。それは、他人の言に全く頼ってはいけない訳ではないということだ。但しそれには条件がある。それは、他人の言をあくまで相対的なものとして扱い、弁証法的に発展させつつ能動的に生きるということである。具体的な好例が思い浮かばなかったので、思いつき次第追記させていただく。

第二節~自己絶対化の手段について~

第一節では自ら自己の絶対化をする必要性を説明した。では、どのように自己を絶対化すれば良いのだろうか。結論から言うと、とことん自分自身と向き合えば良いのである。なんだそんなことかと思うだろう。しかし実際それはそんなに易しいことではないーなぜなら人間には「思考停止」という機能が標準装備されているからだ。例えば自分が何を好むのか、何に怒りがわくのか、何に欲望を感じるのか、綺麗な景色をみて何を思うのか、己の感性に目を向けることすら容易ではない。己の感性を直視するということは、鮮やかな世界の中で自分がどう在るかを認識できるようになると同時に、それまでシャットアウトしていた様々なストレスをまともに受け入れることにもなるからだ。

従って普通は、(ストレスフルな)社会に順応するにつれて自分の感性がはっきりとは認識できなくなっていく。自分自身と向き合うというのは、その逆の過程ー即ち、自分の感性をはっきりと認識しようとすることである。換言すると、何かを感じた時に「なぜ」自分がそのように感じるのかを俯瞰的に分析することである。何となく楽しいとか何となく寂しいとか、「何となく」を突き詰めて考えることも一つの有力な方法である。或いはスポーツに挑戦してみたり、読書をしたりするのも良いだろう。スポーツに挑戦すると、(ここでいう挑戦とは上達を目標に継続的に取り組むことである)乗り越えるべき壁が遅かれ早かれ必ず現れる。それを乗り越えるためには必ず自分と向き合うことが必要になってくる。努力なしにはその壁は乗り越えられないし、その努力にはモチベーションが必要であり、モチベーションは己の感性や信念を根源とするからである。これには多くの人が同意してくださるだろう。

一方で読書では明確な目標は立てづらい。そもそも読破すること自体に大きな意味はないし、量の問題でもない。それよりも読む過程で何を得るかというのが重要なのは自明であろう。実用書などは例外かもしれないが、小説には誰かの人物像というのが必ず出てくる。たとえ人間が登場しない小説にも、メタな見方をすれば作者の人間性というものが多少は見えるはずだ。彼らは小説の中に固定され、あなたを攻撃することはない。万が一差別や偏見に満ちた攻撃的な文章だとしても、読まなければいいだけだ。彼らの人格や言動に何を感じるか、なぜそう感じるかをとことん分析することであなたの「感性に対する目」は養われるはずだ。この「感性に対する目」こそが自己の絶対化のための重要なカギとなる。

ここで、挿入的に自己肯定感というものを説明しなければならない。例えば「幼少期によく褒められて育った人は自己肯定感が高い」という説を聞くと、なんとなくそうなのだろうなという気がすると思う。しかし実はこれは余り適切な表現ではない。なぜならば自己肯定感というのは、自分と向き合うことによって生まれる自己への正しい認識の上に成り立つ、「自分とはこういう存在である」という前向きな感覚のことだからだ。(後述する発展的な自己肯定感と区別して「原初的自己肯定感」とでも名付ける)他人からの賛辞は、勿論一定の高揚感を与えうることには間違いないが、第一節で述べた通り「他人の言葉によって自己を絶対化するということは不可能」なのである。

話を戻して、最も重要な部分に入る。「感性に対する目」を養うことで自分の中での「自分」のイメージと本質的な「自分」がどんどん近付く。(感性は自分の本質的な部分であるから)自分を知るという喜びはすべての人間にとって共通するものであるー行動決定をより適切に行えるようになるという大きなメリットが伴うからである。これはつまり「自分とはこういう存在である」という前向きな感覚、即ち原初的自己肯定感を育てることを意味する。これは自力で育てたものであるから、他人にいくら否定的な言葉を浴びせられても揺るがない。これこそが「自己を絶対化した」状態であるのだ。

要約  ~第一、二節のまとめ~

以上を簡潔にまとめるとこうなる。

他人の言葉によって自己を絶対化するということは不可能なので自分で自己の絶対化を行う必要がある。自己の絶対化のためには自分の感性に対する目を養う必要がある。感性に対する目が養われるとは自分のことより深く理解するということであり、それによりある種の自己肯定感が生じる。その自己肯定感というのは自分で養ったものであるので他人によって損なわれず、これこそが自己を絶対化した状態である。

(後編に続く)

予告:次回の投稿は後編ではなく別のものになる予定ですがあしからず。(Kyojin)

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