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”無条件で”テロに反対しない人達が民主主義を破壊する

はじめに



犯人を捕らえた勇気ある漁師

 2023年4月15日午前11時半、岸田首相が応援演説をしている最中に爆発物が投げ込まれる事件が発生した。勇気ある漁師の方が犯人を迅速に取り押さえたことや、爆発物が暴発しなかったことなど、数多くの幸運が重なり、大惨事とはならなかった。

 そのような中で、マスメディアや一部の言論人、SNSではこの事件の犯人や安倍元首相を殺害した容疑者などを賛美するような言動(遠回しな表現を含めて)が、散見された。また、犯人の動機を酌んで、社会を変える運動を支持するような人もいた。

 どうやら、彼らは自分で何をしているのかわかっていないようだ。
 今すぐに、そのような行動を停止し、発言を撤回したほうが良い。

 なぜか。それは、民主主義体制の中で、テロは、 

恐ろしいほどコスパが悪いから

 である。(ひろゆき切り抜きタイトル風に言うなら、「テロで世の中良くなるとか思っているやつ、救いようのないOOです。」)ここでいうコスパは0とか+とかではない。明らかなマイナスである。しかも個人とっても、社会にとってもである。


 「いやいや、民主主義は決定に時間がかかって、それこそコスパが悪い。」と思う人がいらっしゃるかもしれない。確かに、民主主義は決定に時間がかかる。それでも、テロによる変革よりはずっと効果があるのだ。

 実に意外に思われるかもしれないが、1900年~2006年の政治運動を調査したところ、非暴力行為による政治運動は暴力的な運動よりも2倍効果的なことがわかっている。(Erica Chenoweth, Maria J Stephan, Maria Stephan, 2011)


 この記事では「コスパ」を

  1. 「その行動により、目的達成がどの程度近づくか。」(以下「達成へのコスパ」と呼ぶ。)

  2. 「その行動により、目的達成や副作用なども含め、どのような結果が発生するか。」(以下「結果のコスパ」と呼ぶ。一般的な「コスパ」と同じ。)

という二つの意味で定義し、双方の観点から、

  • テロリスト

  • テロリストに中途半端な態度で接する or 同情 or 賛美する人
    (滑稽なことに、彼らの多くは、政権を「民主主義の敵」と長い間非難してきた。)

  • それらを煽るマスメディア

がなぜ愚かなのか。なぜ民主主義の根幹を揺るがし、社会を破壊するかについて論じていく。

補足

 混乱を避けるため、この記事内で使われ、辞書的な意味とは少しずれる言葉の定義を明記しておく。

・テロ :  大勢の注目を浴びるため、暴力による、政治経済体制への妨害、破壊行為。
・愚か :  自分を守ったり、成功、繁栄に導いたりするものを、自ら桎梏として破壊する行為をさす形容詞。

達成へのコスパ

 この章では、「テロでは政治的目的を達成できない。」ということを論じていく。

テロは支持されない

 テロはその動機に関わらず、民衆には支持されない。

 一つ目の理由は、関係ない被害者が出る可能性がある。
 
 例えば、岸田首相襲撃の事件では、数人の軽傷者が発生したのみで済んだが、爆弾が暴発し、犯人もろとも、数十人が死傷しても全くおかしくなかった。安倍首相の殺害も、跳弾などで、聞いている聴衆に命中する恐れが十分にあった。

 「演説を聞く」という民主主義で当たり前の行為をした何の罪のない人々が、テロの被害に巻き込まれて死亡したり、後遺症に苦しんだり、遺族が嘆き悲しんだりする。 

 そのような光景をイメージすれば、人々はテロリストに賛同できるであろうか。少なくとも、人並みの想像力、共感力がある人ならば、確実に「No」であろう。ましてや、「必要な犠牲」、「運が悪い」、「世直し」、「革命」などと思う人間もまさかいないであろう。

 二つ目に、治安を悪化させるからだ。テロに限らず、犯罪行為の多発は民衆の不安を増大させる。詳しくは次の章で論じる。

 三つ目の理由は、テロリストの考えは幼稚だからだ。
 何か政治に不満があるのであれば、選挙に行ったり、請願権を行使したり、SNSを使って発信したり、必要ならば裁判を起こしたりすればよい。世の中には、政党や企業だけでなくNPO法人など、このような活動を手助けをしてくれる団体がたくさんある。

 自分自身をわけもなく周りよりも特別だと思い込み、他人の迷惑を考えず、飛躍した思考、極度に単純化した認識、意味不明の独自の見解を周囲に押し付ける。そのような自己中心的な人間は決して人には好かれない。

 加えて、議論を放棄した人間が自身の要望をはっきりと世間に伝えられるだろうか。民主主義では主義主張異なる人を説得する必要があり、その中で、「自身の運動がどう見られているか、どう認識されているか。」について知ることができる(それによって内容を改善することもできる)。しかし、テロによって、一気に変革した時、このようなフィードバックがほとんどない。一発勝負だ。そのような中で自身の理想を100%実現できるかはかなり怪しい。

テロは実現しない、犯行も理想も

 テロが多発すれば、犯行を実行することも難しくなる。ただ、ターゲットを殺すことができないだけではない。そもそも未然に防がれるのだ。警察の捜査の強化、部品の購入の規制、など様々な障害が立ちふさがり実行はますます困難になるだろう。

 また、歴史的に見てもテロは望みをかなえられない。政治学者のMax Abrahms(2006),Audrey Cronin(2009), Virginia Page Fortna(2015)らが、それぞれ別個にテロは成功率が低く、政治的な目的を達成するのには、非テロ的行為と比べ、有効ではないことを明らかにした。

結果のコスパ

 例えテロが成功し、そして自分の主義主張が通って政治が改善されたとしても、社会に対する悪影響がそれを上回る。テロを無条件に許すことのない社会がどうなるのか考えてみよう。

急激な改革の弊害

 その前に、まずは今起こっていることを確認してみよう。
 安倍首相の銃撃事件では、犯人の家族が世界統一神霊家庭連合に多額の献金をして、破産したことに対する恨みが一つの動機とされ、二世信者の被害者救済などが急ピッチで進んだ。
 この展開をもって、件の容疑者を評価する人がいるが、ちょっと立ち止まって考えてほしい。

 二世信者の救済には、両親という最も関係性が強い人間が絡む。それを急激に引きはがせば、彼らの精神状態に悪影響が及ぶことは避けられない。本来、こういった問題は根深く、デリケートなもの、ステップバイステップで行わなければならないものなのだ。

無政府状態の危険性

 言論人たちが、テロになあなあな態度で接すると、特に今の日本のような経済的、社会的に悪化した状態では、人々は現状の政治体制や法について疑問を抱き始め、民主主義的なプロセスを軽視し始める。このような状態下では、犯罪が頻発するようになり、治安が悪化する。(Eisner) 暴力が日常茶飯事の無政府状態になるわけだ。

 そのような中では、政治活動、言論活動、経済活動が滞るのは目に見えている。情報伝達、啓発活動、家計の状況が縮小していく中で、人間の思考力、共感力が低下し、先人たちが積み上げてきた伝統や慣習(そして、倫理道徳)を軽視する風潮が誕生していくだろう。

 こうした中では、女性や子供、老人、障がい者などの比較的力が弱い人たちを助けようとする精神が薄れていく。こうして格差がどんどんと拡大していき、「超自己責任社会」が到来するのだ。

 特に、岸田首相襲撃事件などの、民主主義の基礎である重要な「場」を破壊しようとする行為は、それ自体法や手続きを侮蔑することに他ならない。それを考えれば、この事件の犯人に適当な態度を取ることの、深刻さがわかるであろう。

全体主義への危険性

 このような無政府状態へ陥っても、陥らなくても、国民の間で不安が増大すれば、治安を維持するために公権力の増大、介入が必然的に望まれるだろう。強権的な政策を掲げる政党が支持されるようになるかもしれない。

 こうして、治安維持という名目で監視体制が強化されたり、相互に監視する、または、自警する体制が自発的にできてしまったり(関東大震災を思い出せばよい。)して、人権侵害が横行する社会を作る発端になってしまうのだ。
 (ちなみに、この発想と似たものが50年以上前の日本共産党も持っていたものである。)

 この例として、ナチス・ドイツがあげられる。政治的な目的によって行使される暴力が右派左派関係なく、1920~30年代のドイツでは日常化しており、これがナチ党の急成長に大きく並行していた。(原田昌博 2019)

民主主義を守ることの意義

民主主義の良点

 「民主主義は決定が遅い。」は反民主主義の決まり文句である。しかしながら、これこそが民主主義の最大のメリットでもある。
 熟議と自由な討論によって成り立ったものはほぼ必然的に「自発的取引」となる。自発的な取引のもとでは、双方に利益のあるプラスサムゲームである。(現実にはそう簡単ではないが、少なくとも独裁制や寡頭制よりはパレート最適を導きやすい。)

 また、これまでの歴史を鑑みてみると、今ほどまでに少数派に対して優しい世界はない。同性愛であっても逮捕されることはないし、女性は夫 or 父の所有物ではないし、障がいを持ったとしても、不妊手術を受けさせられることもない。

知性ある人に求められること

 ここでは、多様性溢れる民主主義の繁栄の時代を守るために私たちはどうすればいいのか、私が考えていることを書いていく。

テロを断じて糾弾する

 言うまでもないことである。これには「相手にも原因がある。」などと言って、テロリストを相対的に評価を上げることもしてはならない。民主主義国家では、暴力を用いた現状変更を、最低の扱いにすべきなのだ。

 社会的に影響力の大きな人が、テロリストに同情すると、テロリストたちは「自分が、社会を変える必要があるんだ。みんなも実はそうしてほしいと思っているんだ。」と思うようになって、模倣犯が頻発し、無政府状態へと進みかねない。そうなれば、ナチスの悪夢へと逆戻りである。
 
 「岸田首相が選挙の法整備を改善いれば、こんなことにはならなかった。」という人もいるが、もし、自分自身が、知性ある人と思うなら、この意見が後知恵バイアスの塊であるとわかってほしい。
 日本には数えきれないほどの課題、社会問題がある。しかも、中には賛成派、反対派などで利害、意見が激しく対立するものもあり、解決には困難を極める。その中で、争いを調停し、双方納得するような解決策を出すのは至難の業で、大失敗してしまうこともあるだろう。総理大臣であっても人間である。どうしても相対的に、あまり力を入れない部分は出てくるし、時には意見を無視されることもある。(選挙があるため、民意に従って、ある程度物事には優先順位がどうしても付けられる。)
 しかし、それでいちいち暴力で直接訴えられて自分が命の危険にさらされたら、たまったもんじゃない。こんな中でいったい誰が政治家になりたいと思うだろうか?

 彼らがやるべきなのは、もし、彼らの望んでいることが、(犯罪の実行を除いて)賛同する部分があるのならば、それをテロの実行とは無関係な形で意見を発するべきである。

No Notoriety, Don't name them

 テロの目的は、簡単に言えば目立つことだ(Lankford 2013)。だったら、報道しなければいい。具体的には、被害者やその遺族に注目し、犯人の名前と顔、動機を報道せず、彼らのストーリーを語らせないようにするということである。
 この運動は「No Notoriety」と呼ばれ、すでにカナダ、ニュージーランドの首相などでは受け入れられており、CNNではこの方針を取り入れいてる

  少なくとも、メディアは自分たちの報道がテロリストたちへのインセンティブになっていないかは、十分に考察する必要があることは間違いない。

No Notorietyのロゴ

自由民主主義の推進、発展への尽力

 20世紀最大の経済学者の一人である、Milton Freidmanは「経済的自由は政治的自由に直結する。」と言った。民主主義を守るためには、経済体制も十分に自由である必要がある。(直近の研究でも示されている。)国家の経済への介入は必要最低限にすべきである。

 このようなことを言うと、「新自由主義者」と言われるかもしれない。
 現在はどうやら、いわゆる「新自由主義」を批判することが「知識人」たちのマイブームらしく、自由市場を廃止したり、脱成長を唱えてみたりと、
創意工夫に満ちた発想や表現で我々に檄を飛ばしている。

 しかし、残念ながら、彼らの言論の根底にあるのは単なる「お気持ち」で、心動かすようなレトリックはあれど、蓋を開けてみれば小学生の学級会程度である。「FactFullness」や「Our World in Data」を見ればわかる通り、およそ250年程続いてきた自由主義は誰が見ても人類に栄光と幸福をもたらしたことは間違いない。(Annaka and Higashijima,2021)

 だからこそ、私たちは民主主義と同様に、自由主義も尊重する必要があるのだ。

 もちろん、「恒産なくして恒心なし」というように、経済を発展させることや、再分配政策を行い、国民に安定した生活を送れるようにすることも重要である。

終わりに

 自由と繁栄の「開かれた社会」を選ぶのか、貧困、暴力が横行する後退した「閉じた社会」を選ぶのか、私たちは今岐路に立たされている。
 

・・・っとまあ、大層なことを言っていますが、筆者は今回note初投稿&10代という明らかな青二才が書いております。そのため、批判、指摘、質問 etc. 大歓迎です。むしろ、お願いいたします。TwitterのDMで送っていただけると幸いです。
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 ここまで、5000字以上の長文を読んでいただき、ありがとうございました。


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