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「奏劇vol.3 メトロノーム・デュエット」 私たち一人ひとりが生きるということ

先日、楽しみにしていた「奏劇vol.3 メトロノーム・デュエット」を観に行った。

今回好きな俳優さんが出ることになり、初めて「奏劇」を知ったのだけれど、音楽と演技の親和性の高さに驚いた。生きている鼓動や思いの波長は確かに音のようで、私たちの中に音楽が生きているのだ、と深い感動に包まれた。

内容は一言で言えば「怖い」に尽きる。音楽が人々を突き動かして、扇動して、一つの方向に動かすという話。
既に終演を迎えているので半分ネタバラシをしますが、出演者の最後の表情、目線がまさに「無」で、その姿に本能的に恐れを感じて鳥肌が立った。人間の無の姿の悲しみに、涙してしまった。

人は、無になるのが一番怖いのだと思う。
嬉しい、悲しい、悔しいなど、はっきりとした思いでも、言葉にならないモヤモヤした形のない思いでも、揺れる感情があること。何か新しいものに出会い、触れて、心が震えること。
些細な日常の一コマでも、私たちには、感情があるからこそ、自分自身で一つ一つの物事を選択して生きることができる。

けれども、それを放棄してしまったら。
もういいやとなってしまったら。

誰かに選択してもらった人生を生きるのは楽かもしれない。
けれども、生きることが、私の手からするするとこぼれ落ちてしまう。

生きることは、とても大変なことだと思う。
生きるためには、稼がなければならない。ましてシステム化された現代は、決められた船に間違いなく乗船しなければ、社会の輪の中に入ることが許されない。
令和の世は、以前よりも自由を手に入れたはずなのに、例えば「ワーママ」という言葉で働く母親が一括りにされたり、丁寧な暮らしをしている(あるいはそう装っている)人がSNSに山ほどいる。
それは、常に私たちが、常に人を集団で見ようとする目と、集団の中で平均的に生きていることの安心感を手に入れたいから、だと思う。
私は、そういうものへの嫌悪感がどうしても拭えないが、ともするとそちら側へと行ってしまいそうになる。
そうした方が、圧倒的に生きやすい。

けれども、その中で抗い続けたい私がいる。
そして、私が集団と称した人々の中にも、一人ひとり自分だけの人生がある。
それを見分けるための繊細な目を、鋭い感覚を、失いたくない。
失ってはいけない、と思っている。

「奏劇vol.3 メトロノーム・デュエット」、素晴らしい舞台だった。

舞台が始まるまでの時間、久しぶりに何も考えずに歩いた丸の内も、本当に素敵だった。

夏の深い緑が日の光に透けて、キラキラと眩い光を放っていた。
ふらっと立ち寄ったパティスリー「ルノートル東京」のフィナンシェ。
ショーケースの外にまで、甘く温かい香りが広がっていて、最近元気のなかった母が、少しでも元気になりますようにと願って購入した。
こういう温かい思いが、思いやりが、私の中に無意識に存在していることに安心した。


人間らしさを失わずに、生きていきたい。
フィナンシェを片手に、舞台の感動を胸にそっとしまいながら、
夜の丸の内で、静かに、深く、そう感じた。

ルノートル東京のフィナンシェ。
トースターで焼くと、外側がカリッとして更に美味しい☺︎

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