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手書きの文字とセンス

1年ぶりに昔やっていたブログにログインした。「手書きの文字とセンス」というタイトルの記事が下書きに残っていた。

タイトル以外なにもない、空っぽの記事だった。

きっと当時の私は、このタイトルで何か書こうとしていたのだろうが、全然思い出せない。もう全く、ひとかけらも思い出せないのだ。

だいたいこのタイトルはなんだ。手書きの文字とセンスって。

「手書きの文字と性格」ならまだ分かる。几帳面な人は一画一画丁寧に書き、行間が均等である。書き進めるに連れて右上がりになど決してならない、という内容を想像できる。

ところで、私の字は綺麗ではない。速さを優先するあまり、あとで読み返すと読めない、という本末転倒を幾度となく繰り返してきた。あれ、知らない言語かしら。寝ている間に高度な睡眠学習でアラビア語が書けるようになったのかしら。と、数えきれないほど錯覚した。

そんなコンプレックスからか、速さと綺麗さを両立している人をみると感動してしまう。じっと手元を見てしまう。今川焼を手際よく焼く手元と同じくらい、永遠に見ていられる。

ちなみに今川焼は、包んでいる紙の匂いを思い切り感じながら熱々を食べたい。あの味を邪魔する紙の匂いがないと、上品すぎてしまう。

脱線した。問題は「手書きの文字とセンス」である。

 全く思い出せない。面白いぐらい何を書きたかったのか思い出せない。

つまり、1年前に自分で書いたタイトルの意味さえ分からない、ということなのだ。下書き保存されていなかったら、私の記憶の中では、最初から存在すらしなかったことになっていた。

とすると、忘れたことすら忘れたことは、天文学的な数だけあるのだろう。

そういえば、 高校の時に随想を書く課題があった。

一人の女の子が「忘れてしまったことすら忘れてしまうのが、一番怖い」という内容を書いてたのを今でも覚えている。

 (私は、人間が一生に出会う人数は3万人で、そう考えると、駅でぶつかって来る人でさえ、ちょっと愛おしくなるという話を書いた。青い、若い、ピュア。ピュアなあまり変態の香りさえする。) 

いまだにこのフレーズがフッと思い出されることがあり、その度に確かにな、と思う。

忘れたことすら忘れたこといっぱいあるよな、と。

だから、日記を書こうとか、ブログを書こうとか、instagramをマメに更新しようとか、試みるのだが、いまだに一つとして続いたことがない。現にnoteも更新に1ヶ月以上経ってしまった。

もはやこれは、全てを忘れたいという深層心理が為せる技なのか。忘れたいと思うあまり、記録に残す行動を無意識的に避けているのか。

今の自分は、過去の記憶の集合体だ。過去の経験と知識で、今の価値観や行動規範は形作られている。ただ、その記憶の取捨選択のルールは、曖昧かつ恣意的で、コントロールが難しいようだ。

とすると、今の自分は、自分で作ってきた気もするし、気まぐれな記憶に支配されているような気もする。 

手書きの文字とセンス、何が書きたかったんだろうなぁ。

 

 

 

 

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