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東京退屈日記、事はじめ

この街には、あまりに選択肢が多い。店や物が溢れ、ある程度のお金を持ち合わせさえすれば、自由を手に入れることができる。

このことを否定するつもりはない。お金による物質的、もしくは刹那的な自由さによって、自分の存在や価値を日々確かめている自覚はあるからだ。

かごの中の鳥だって、押すと餌がでるボタンつきの籠と、きまぐれに餌が差し込まれる籠だったら、前者を選ぶだろう。ボタンを押すと餌がでる、という行為を通して、何か意味のあることをしている、という錯覚に陥れるからだ。そして、自分の存在に希望を抱ける。

希望がないと、生きること、殊に生き続けることは急に難しくなる。

まぁだから要するに、鳥がボタンを押す原理と同じにして、私は日々お金を払い、対価を得ることで、自分の存在を確かめているのだ。

ものを買い、お酒を飲み、何かをしている自分を知覚する。自分の存在の確かさを感じる。そして、自分は自由だと信じ込ませる。

東京はそんな生活に向いている街だ。日々の選択は無限にあり、虚無感を埋めるための行為は、永遠に尽きることを知らない。

毎日のように新しい遊び場が生まれ、ウイルスのように人々は情報を拡散し、嘘か本当か見分けがつかない人間関係が毎夜生まれ、踊る。

嘘か本当かはどうでも良く、ただ、踊りたいだけなのだ。踊っている間世界は回り、三半規管が揺られた頭に考えることはできない。

東京の暮らしは、生きている感覚が日々薄まっていく。消費することでしか、自分の存在を確かめる術がなくなっていく。

今日も町に人は溢れ、スーパーのレジで前に立ったカップルは、新しく出来た店の話をしている。ただ時間が流れていく。

ああ、今日も退屈だ。

退屈な日々の中で、好奇心と妄想は一つの灯台である。というわけで、退屈に対する一種の療法として、好奇心と妄想を四方八方に膨らませ、好き勝手なことを書いてみようと思う。

東京退屈日記、お付き合いくださいませ。


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