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131. トレードオフ

 長時間労働で健康寿命を削るのと、闇バイトで社会的信用を吹き飛ばすのと、大差ない気がしてならない。悪い大人たち、もっと言えばおそらくリ⚫︎ルートの皆さんのかけた「自己実現の呪い」でしかない。
 誰に何を言われなくとも「俺は名を残して死ぬんだ」「人のためになる仕事をするんだ」と心底思えていた人のみ私に石を投げなさい。数えきれない大人たちに吹き込まれる遅効性の毒。

 何者かになる、認められる、社会と他人の役に立つ。富と名声より、何ならおそらく愛より得難い。

 志を語る。通過儀礼のように、コミットメントを宣言する。companyの語源はパンを分け合う仲間。文字通り「同じ釜の飯を食う」仲間。生半可なコミットメントで食い扶持を減らされちゃたまらない。高い給料をいただいているから当たり前。24時間戦えますか?

 あついバトルものの少年漫画を読むと、大抵は「人を殺す」という通過儀礼を経験するようだ。修行編が終わって、実践編の中盤くらいに来る葛藤シーン。できなければ弱者として死ね。できれば今日からお前は仲間。人を殺めたからもうぬるま湯の暮らしには戻れない、戻らせない。非常に日本的だ。

 「やりがい」(そもそもそんなものが実在するのなら)を自分のものにできる人、自分の仕事を本当に「世の中のために役立て」られる人はほんの一握りである。マズローの欲求5段階は資本主義とあまりにも相性が良すぎた。鼻先のにんじんを誇り高く追いかけられるから。

 ただ幸せに生きることを許されない若者たちが何もかもを投げ出して「寝そべり族」へと進化するのは、当然と言えば当然でしかない。しばしば『クレヨンしんちゃん』の野原ひろしに代表される「普通の幸せ」はもう存在し得ない。

 丸の内の綺麗で冷房の効いたオフィスでダイバーシティやSDGsを語り大企業から余った予算をせしめてパワーポイントを作る間に、ギリシャ沖では難民船が沈み続ける。しかし我々は人道支援などしない。良い大学を出て、「努力」してここまで来たから、「我々にしかできないこと」をしなければならないから。その痛みと矛盾に耐えられないのは「幼稚」で「弱い」ことだから。これに加担すればお前も今日から仲間。鼻の穴を相手に向けろ。

 12歳の頃に父親が保険金目当てで母親を殺した元少年のインタビューを思い出す。殺人犯の息子への嫌がらせから身を隠すためにカモフラージュとして家を借りた時、職にありつけなかった時、獄中にてもうじき死刑が下るであろう父親との文通をどちらからともなく辞めた時、大量の手紙を火に焚べた時、万一にも家庭を持ってしまわないよう父と母の記憶を全身に刺青として入れた時。彼のいる地獄と丸の内の明るいオフィスを思う。彼が夢見た普通の幸せと、資本主義の打ち砕いた普通の幸せ、我々が取り上げてしまった普通に幸せ。保険金目当てでもそうでなくても、ふとした悪意や下手なSNS投稿の一つで吹き飛ばせるものが、良い大学、華々しい経歴、今までのコミットメント、なけなしの良心、ありったけの特権意識。

 幸せは労働時間、健康、家族仲、青春、金、何者ともトレードオフではない。本来秤に乗せることすらできないはずのもので。ただふとしたタイミングで崩れ去るか、もしくははなから成立しない。
 そこらじゅうに地獄が口を開けている。
 トレードオフの「自己実現」ほど強力で、馬鹿げた呪いはない。

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