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58. 「地に足がつく」

 久々に高校時代の友人たちと会った。皆各々人生に進捗を生んでいて、それがこの上なく嬉しかった。理不尽に耐えながら働いていても常に好きなことを追い続ける友人、好きなことを仕事にしてしまった友人。
 いや誰だよ、と笑いながらお互いの変化を楽しむ時間が毎回愛おしい。またしばらく会えなくても自分のこと忘れてないだろうか、と心配になることもなく。どうか達者で、とだけ思える関係性は稀有かもしれない。(また変な病気してない?と心配されないくらいには丈夫になりたいものである。)

 以前まで、具体的には大学卒業後1年ほどまでは、他人の人生のことを聞くたびに、みっともないくらいには焦っていた。ああもっと頑張らなきゃ、追いつかなきゃ、と気持ちが沈むことも少なくなかった。顔に出ていたと思う。本当にすみません。
 自分と比べてどうこう、という話でもない。ただただ友がみな我より偉く見ゆる日よ、である。あれって実は自分の至らなさばかりが見ゆる日よ、ではないかと思う。他人と話してから自分の殻にこもってしまう時間というのは、概してどうしようもなかった。意義もクソもない。焦燥感ばかりで、次につながる具体的な反省なんか微塵もないからである。

 大人になることとは、「何者にもなれない」自分を受け入れること。どこかの誰かが言っていて、やや納得した覚えがある。脱サラまではしなくても、必ず良いものを作って残したい、と強く思っていた時期があって、それはやはり友人たちと心穏やかに過ごせなかった時期と重なっていた。もっと言えば、自分以上にダラダラと過ごしている(ように見える)人には我慢がならなかった。引きずり込まれてしまうように思ったから。どうしようもない弱さを自覚する。

 何か作りたい、という気持ちが最近になって消えたわけではない。
 ただ今あるもので最大限に良い人生を送ること。無理に納得しなくてもいいので、できることは絶対に手を抜かないこと。そういう姿勢を身につけてからは、自分の殻にこもらず、友人たちにもっと素直な尊敬の気持ちを持つことができた。他人の話は他人の話として、心で聞くことができた。人の話を聞く、というのは幼稚園でも教えられるが、これは本当に難しいです。少なくとも、私にとってはなかなかできないことだった。

 自分は自分、他人は他人、というほど単純な話ではないらしかった。永井均先生も言っていたように、「かけがえのなさ」というものは哲学を離れてなお確実に存在する。自分の「かけがえのなさ」に気付いて初めて、本当に他人を尊重することができる。そうしてようやく、自分の人生をものにすることを考えられるようになる。スタート地点に立つだけだが、地に足つく、というのはこんな感じかもしれない。
 昔から「地に足ついてる人」が好きだった。彼らは何かを諦めたわけでもなく、ただ自分の能力について冷静に判断がつき、絶対に努力を怠らなかった(そして大抵スヌーピーの名言「持っているカードで勝負するしかないさ」を引用してくれた)。
 いつか他人の進捗を聞かなくても、自力で元気を出してやっていく。バカみたいな話だが、これができる人を私はあまり多く見たことがない。久々に会う友人よりも、数日前の自分に顔向けできるように。地に足つけて、立って歩く。前へ進む。

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