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132.飢え

 『ドライブ・マイ・カー』で、主人公の妻が不倫しながらクラシックをかけている場面があって、面食らった。男の上で腰をくねらせながらバッハやショパンが聴けるのか。ゲイジュツとジンリンへのボウトクだ〜、と憤ったが、実際大したことはないのかもしれない。人を欺きながら絵を見ることはあるし、ものを食べて生理的欲求を満たしながら音楽を聴いたり映画を観ることもある。人倫には悖るかもしれないが、きっと元気の良いことこの上ないんだ。

 朝から晩まで働いて、パズドラはできるのに漫画や小説は読めない、というアレ。何なんでしょうね。「減るもんじゃないし」と言われる時、大抵何かが削られていますが、ここで削られているのは何でしょう。なぜ「現代人は読書ができない」のか、について絶対にしっかり研究している人がいるはずだ、と思い調べてみたら案の定いた。自分と大して歳の違わない人が、しっかりと書いてくれていた。三宅香帆さんのコラムである。どうやら社畜が本を読めないのは今に始まったことではないらしい。世知辛いですね。日本人の素晴らしく、どうしようもない勤勉さ。

 飢えた子どもに文学は何ができるか、というサルトルの問いには答えが集まる。じゃあ眠くてたまらない社畜に文学は何ができる?文学に社畜は何ができる?それよりも、パズドラだけしていて飢えていくのはなぜなのか。生きた会話、ファストコンテンツ、生身の人間、それからSNSで補えないものが本当にあるのか。仮に時間の洗練だとすると、何百年何千年を生きれば満足できるのだろう。言葉と記録が引き延ばした我々の寿命はあまりにも長く、目眩がするようだった。

 海上で遭難して救命ボートの上でビタミン欠乏になり、自然と魚の内臓ばかりを貪り食うようになった、という映画の一幕を思い出す。体のアラートに脳が対応してくれている。精神のアラートにも対応してくれないかな。一定期間経つと自然と美術館やコンサートホールに脚が向かうとか。水面に惹き寄せられるカマキリみたいに。閃く水面を目指して、ヒトの寿命を軽々と飛び越えていく。

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