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56. 言語の話

 仕事で中国語を話すと、相手から「あなたは何人ですか?」としばしば訝しがられる。「さっきの人はどっちなの?」と、私が離席してからわざわざ同僚に質問してくれた人もいた。日本人の名前で同僚と日本語を話し、日本人にしては流暢な発音で、やや語彙の足りない中国語を早口で話すからだろう。自分の意識としては「どちら」でもない。夢は日本語で見るし、九九は中国語。「反日」にも「反中」にも辟易する。食べ物は韓国料理が一番好き。

 「言語が我々の考えを形成する」。文系学生ならきっと一度は聞いたことがあるであろう、サピア=ウォーフの仮説である。一般にも分かりやすいこと、帰納法と相性が良いことのおかげか、散々いろんなところで使い回されているのを見かける。そして近年では、もうそろそろ批判も出尽くした頃合いかもしれない。

アラビアに雪降らぬゆえただ一語 ثلج (サルジュ)と呼ばれる雪も氷も
『砂丘律』、千種創一、2015、青磁社

 好きな詩集の、おそらく一番有名になった短歌であろう。千種さんは素人にも楽しめる、質感の豊かな短歌が多い。きっと解説なんかは必要ないだろう。
 もっと卑近な例として引き合いに出されるのが、出世魚や肉の部位・焼き加減の話である。日本人は魚を食べてきたから、成長の各段階にそれぞれ違った名前をつけ、欧米人は肉の部位や焼き加減にこだわってその語彙を増やした。そしてそれぞれ互いの言語に翻訳するのに適当な言葉をあてがうことができない、というやつである。
 生活に根ざしたものを出してきて、さあ異文化理解を進めよう!という話なら平和的で良い。しかしそもそも生活が先行しているので、言語が異なってくるのは当然である。分かりやすいものはしばしば良からぬ方向に使われる。差別や偏見は「分かった気」から生まれることが多い。

 言語と思考のこの仮説を希望として描いた作品と、脅威として描いた作品とそれぞれひとつ、好きなものがある。
 テッド・チャンの『あなたの人生の物語』(映画『メッセージ』の原作となった短編小説である。あのバカウケが宙に浮いているやつです)と、伊藤計劃の『虐殺器官』。正反対にも見えて、案外似たような構造をとっている作品たちである。
 今では全く形や様子は異なるが、元は同じ働きをする生物の器官を相同器官、これに対して元は全く別の器官でも今は形や働きが同じものを相似器官と呼ぶ。生物の進化を文学作品にやや強引に当てはめたこのたとえも手垢がつきまくってはいるが、概ねそんなもんちゃうか、とは思う。伊藤計劃はテッド・チャンを読んだのだろうか。
 言語学者が、飛来した宇宙人から環状の表語文字とその文法を学び、時制の捉え方が大きく変わってしまう物語。暗殺を請け負う部隊の大尉が、虐殺を引き起こす文法を各国でばら撒く言語学者を追う物語。双方とも、サピア=ウォーフ仮説に則っているように見える。私の雑な認識上、サピア=ウォーフには「強い方」と「弱い方」とがある。強い方は、言語が人間の価値観や思考そのものを決定づけてしまうという仮説。弱い方は、言語の使用が人間の思考に多少なりとも「影響を与えている」という仮説。SFとして書く上で仕方がないものだろうが、2つともこの強い方のサピア=ウォーフ仮説に沿っている。過去現在未来の区分がなくなり、時間の流れ、人生全体を俯瞰して見るようになる主人公と、特定の文法を使った演説がされるたびに虐殺が起こる世界。言語に使われる人間たちのifを描いている。

TEDでもっとも視聴された演説も、「言語はいかに我々の考えを形作るのか」という内容である。ロシア人は青の認識が英語話者とは異なること、アボリジニには左右の語彙がなく、方向は身体ではなく地面に常に結びついたものであること。平易な言葉で軽妙に解説してくれている。生活に根ざしたものは当然かもしれないが、アボリジニの例のように、身体感覚のようなものに違いが表れるのはおもしろい。感心しながら時々一時停止を押して、単語を確認しつつ聞いた。英語はまだまだ体になじまない。

 どうも英語圏の人は我々よりも、このサピア=ウォーフ仮説が好きであるように見える。彼らがサピア=ウォーフ仮説として認識しているのかはよく知らないが、似たような言説や主張を、日本人によるものよりは本当によく見かける。小さな島国と違って、日常生活の中でも「異文化の人」と触れ合う機会が多いからだろうか。共生をとことん考えなければならなかったからだろうか。それとも相対的に、日本人がサピア=ウォーフ仮説みたいなものにさほど興味がないだけなのだろうか。中国人に聞いてみるべきかもしれない。地続きの大陸であらゆる衝突と融合を繰り返した人々にとって、言語はどんなものなのだろうか。あちらで高等教育を受けることがなかったため、一般的な価値観が分からない。

 カール大帝は「第二の言語を持つことは、第二の魂を持つことである」と言った(TEDのレラ・ボロディツキー教授の受け売りである)。そうであってほしい。言語は思考の背骨になるかもしれないし、ただ便利な双眼鏡のように違った景色を見せてくれるかもしれない。背骨の全く異なって見える人々をはなから異質なものとして退けてはならないし、双眼鏡だけを覗いていると近くの様子は分からなくなる。
 私は弱い方のサピア=ウォーフ仮説を信じたい。
 英中日独、今まで触れたどの言語も新鮮な美しさがあり、美しいロジックがあった。少しでも魂と脳ミソが柔らかくなっていることを願う。


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