本当の悪は笑顔の中にある
誰かに対して、本気でその人の存在を消してしまいたいと思ったことはあるだろうか。
その日、私は友達と飲んだ帰りだった。
突然、知らない女性からDMが届く。
「彼、いま、私の家で寝ているんですが。」
状況が読み込めず、頭が真っ白になる。
自分の頭のうずまきを取り払うのに必死すぎて、外の世界の音が、色が、景色が、スーッと遠のいて行くのがわかった。血の気が引く、鼓動が激しくなるとは、まさにこのことだ。
気付けば私は家にいて、ボロボロと泣きながら、さっきまで一緒にいた友達に助けを求める連絡をしていた。この時、真っ先に連絡をできる存在がいて、本当によかった
なにもかもがウソで塗り固められた世界。それを信じきっていた自分のバカさ。どちらに対しても、腹が煮えくりかえる。それさえも超えた時、呆れて滑稽さに笑いが込み上げる。
視界に入る彼の所有物も、本人も、すべてゴミ袋にまとめて燃やしてやろうと、本気で思った。冗談でたまに耳にする「みんな爆発すればいいのに」を本気で思った。もちろん、感情的になっていたのは一時的で、燃やすこともしなければ放火もしない。
けれど、わたしという人間の中に、こんな悪魔のような感情が潜んでいたと思うと、ゾッとする。
映画のJOKERを観た時、思ったことがある。誰しもジョーカーになり得る潜在的な可能性を持ち合わせていて、環境が、社会が、その引き金を引く。
自分もジョーカーになれそうだ、と思った。
わたしの中のジョーカーを必死に奥の方に押し戻して、彼に連絡をした。今にも出てきて叫び散らかしそうになるジョーカーを押し殺すのには、それなりの労力が必要で、声が震える。
「……ごめん。」
そうだよね。何もかもバレて、それしか言うことないはずもん。これでもし言い訳でもしはじめたら、危うくジョーカーが飛び出てきて暴れちゃうところだった。間一髪。
でも、そう簡単には許せなかった。
誰しも、誤ちはある。しかし、これは計画的な嘘、裏切りであり誤ちではない。ふと咄嗟に口を出たでまかせの嘘よりも、確信を持ってつかれた嘘の方が、深く、深く心を傷つけることを知った。
時には、やさしさの嘘もあるかもしれない。それは相手を想う嘘だ。けれど、自分の悪行を隠すためだけに存在した嘘は、消せない傷跡を相手に残す。そしてこの傷みは、経験した者にしかわからない。経験する必要がない傷みだからだ。
これを読んでいる誰かの中にも、消せない嘘をついている人がいるだろうか。もしいるのなら、すぐにやめて知られることなく墓場まで持っていってほしいともおもう。
バレなければ良いということではないけれど、せめて隠し通すことが相手への礼儀だとすら思う。この感覚はもう狂っているのだろうか。
今後のためにも自戒の念も込め、ここに書く。
これまで色んな人を見て、聞いて、体験してきた。たくさん傷付き、また私も人を傷付けてしまったこともあった。だけど本当に信頼していた人に裏切られた時、初めて気付くのだ。
自分を信じてくれる人や大切にしてくれる人、そして自分も大切にしたいと思っている相手さえも傷付ける時、人は自らをコントロールできないジョーカーになってしまっている。
わたしは、この怒りと悔しさと悲しさと寂しさと切なさと呆れ、私の中に沸いてフツフツ温度を上げた感情を、自分の中にしまい込む。
わたしは、怒りではなくやさしさで悪を殺したい。この人はそういう人間だったのだと、認め、そして前に進むのだ。私の強いハートにはまだ、負の感情をポジティブに変換する力がある。
意地でも、ジョーカーになんて成り下がってやらない。
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