ムタン
くじけない心はどう養われるかーー若き写真家の生き方から学ぶ
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くじけない心はどう養われるかーー若き写真家の生き方から学ぶ

ムタン

「失敗を恐れず、とりあえずやってみる。でも、現状失敗する余裕もない。もっと色々やりたいけど……」

大手広告制作会社を辞めて3年、東京都内でフリーランスの写真家として日々もがいている。

大学時代に病気で人生が狂い、就職しても即退職。それに負けず、写真を通して手に入れた前向きさとくじけない心。33歳になり、焦りつつも前に進む若き写真家・小野悠介(おの・ゆうすけ)さんの生き方とは。

パニック障害、うつ病、強迫性障害で狂ってしまった人生

大学4年時にパニック障害、うつ病、強迫性障害の3つの病気を患いました。それで留年してしまい、大学には5年間通うことに。学生時代に病気によって、僕の人生は大きく狂ってしまったんです。

病気になったきっかけは、ファミレスでのアルバイト。キッチン担当として排水口の油汚れ掃除を毎日やっていました。ある日、バイトから帰宅してから家のものに触れなくなっちゃって。急に潔癖症みたいになったんです。

医者には、強迫性障害と診断されました。

家族にも触れられない、常に新品のスリッパを履いていないと家の床すら歩けないという状態。満員電車にも乗れなくなって、大学には始発で行き、終電で帰るという感じでした。そのような生活をずっと続けていくうちに気が滅入ってしまい、パニック障害やうつ病も併発してしまったんです。

就職→即退職「職場でパニックになり街をひとりさまよう」

今は病気を乗り越えたので、多少汚くても気にならなくなりましたけど(笑)ただ、大学生の時は就活もろくにできず、仕事がない状態でいきなり社会に放り出されたのでかなり苦労しました。

無職だったので「とりあえず働こう」と思いました。それで、当時興味があったインテリアや雑貨関連の会社をいくつか受けてみたんです。そうしたら、1社から内定をもらえて販売員として働くことになりました。

けど、就職して1週間で辞めたんです。

売り場に立っていた時に、病気が再発しちゃって。パニックになり、気付いたら当時勤めていた立川の街をひとりさまよっていました。親に電話で助けを求め、実家でしばらく療養しました。

そんな状態でしたが、自分は長男なので働かなきゃいけないと思って。療養から2週間ほどして、すぐにタウンワークで仕事を探し始めました。

5年間働き、真剣に悩んだ流れに身を任せた生き方

次に勤めた会社は地図制作会社。その時は面接時に、前職時の出来事や自分の病歴を全部伝えた上で内定をもらいました。

技術職として5年間働き、上司からは「正社員にならないか」と声もかけてもらえて、とても嬉しかったです。

ただ、働く中でだんだん今後の人生についての迷いが生まれてしまい、正社員にはなりませんでした。というのも、大学を中途半端に出て、「働かなきゃ」という気持ちから行き当りばったりで仕事をする「流れに身を任せた生き方」だったからです。

このまま地図制作会社で一生働くか、それとも他の生き方を探すか。これからの人生について真剣に悩むようになりました。

そのようなタイミングで沖縄に行ったこと。それが僕のターニングポイントになったんです。

「写真で人を幸せにできる」旅先での一言が写真を仕事にするきっかけに

父親の元同僚が沖縄の北谷町にいるのを知っていたので、これからの人生のヒントを求めて、旅行がてら会いに行くことにしました。社会人になって2年目に趣味としてカメラを始めていたので、その人に会った際に撮り溜めていた風景写真を見せたんです。

すると「君は写真で人を幸せにできるよ」と真剣な表情で言われて。

その言葉がきっかけになり、本気で写真をやろうと決心できました。当時、大学を中途半端に卒業したこともあり、「もう1回勉強を本気でできたらな」という気持ちもあったので、その人の言葉は驚くほどすっと入ってきました。

なかなか踏み出せないままでいたけれど、その人に出会ってからは「その積極さどこから来たの?」というくらい素早く行動に移せて。東京戻ってすぐに、写真専門学校のパンフレットを取り寄せました。

「ひたむきに学び、作品作りに没頭」覚悟を決めて通った写真学校

それからは、毎日仕事が終わってから写真専門学校に2年間通いました。サラリーマンが学び直せる夜間コースがあったので。

正直、学び直している時は、「カメラ向いていないのではないか」と不安に思うことも多かったです。そのような不安に負けず、迷いながらもひたむきに写真を学んで、作品作りを続けました。

僕自身は複数のことを同時にやる器用さはなかったので、学び終えたら、カメラを生業にしていこうという覚悟を決めていたので。

仕事も週4勤務にしてもらい、「残業もしなくていいよ」という許可をいただけて。会社から理解してもらえたことが、本当にありがたかったです。

大学時代に街づくりに関するゼミに所属して、全国を飛び回って地域活性化などについての調査をしていたんです。だから、写真を仕事にするとしたら、地方の街づくりや活性化のために活かしたいなという想いを強く持っていました。

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「東京には愛着がなかった」写真を通して探す自分なりの故郷

地方に対して強い思いを持っているのは、宿命論・運命論みたいなものなんです。こう言うと不思議に思う人もいると思います。

僕は東京生まれ、埼玉育ちでもともと愛着のある故郷や、祖父母が暮らす田舎みたいなものがありませんでした。今となっては東京に対しても愛着はあるんですけど、子どもの頃は分かりやすく愛せる地元要素を東京に感じなくて。

だからこそ、育った場所に対して愛着を持っている人たちが心の底から羨ましかった。自分も愛着を感じられる場所が欲しかったので「ないなら愛着を持てる場所を探そう」と思うようになりました。

その意味では、都市・地方とある中で、絶対に地方でなくてはいけないということではありません。語弊がないように言うならば、地方というよりは地域というニュアンスです。

カメラをやっているので、せっかくなら撮影を通して地域に貢献しながら、第2、第3の故郷を見つけていけたらなと。それは、同時にさまざまな場所に住んでいる色々な人たちと関わることで、自分の生き方を見つけることにもつながっているんです。

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「僕は都会育ちで、それ以外の生活を知らなかった」人口300人の利島で日常を記録し始める

写真で地域を撮ろうと思ったのですが、最初はどこを取材しようか迷いました。

それで大学時代のゼミの先生に「面白い人がいる地域があれば教えて下さい」と聞いたんです。伊豆諸島にある利島については教えてもらい、そこに通いながら作品作りを始めました。ちなみに、利島は人口300人、面積4.12㎢の小さな島で、2015年から現在まで6年以上通っています。

撮影している写真のテーマは、利島の地域風土に合った「暮らし」です。季節ごとに利島に訪れては、農作業を手伝いながら島の人たちの日常を記録しています。自然や人の移り変わりの変化に撮影者として立ち会えるのはとても楽しいです。

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「全然撮影がうまくいかない、何もできない」同じ時間を過ごすことで心を許してくれた

利島を訪れた当初は、全然撮影がうまくいきませんでした。恥ずかしくて人にも話しかけられず、最初の数日間は見事に何もできなくて。人とコミュニケーション取るのがどちらかと言うと苦手なほうでした。

そんな時に、島の人が気を利かせてくれて井口さんという椿農家さんのところまで車で連れて行ってくれたんです。「あとは好きにしな」と畑の前で降ろされて、放置されたんですが(笑)大学生ボランティアが、目の前でちょうど農作業をしていたので僕も混ぜてもらいました。

でも、しばらくは写真を全然撮りませんでした。「郷に入れば郷に従え」という言葉があるので、まずは農作業の手伝いをしました。そして、一緒にお酒を飲み、ご飯を食べて、語ってということを繰り返していると次第に心を許してくれたんです。

ひとりの人間として認められたことで、次第に自分自身がその場の空気に馴染んだように感じられて、自然と写真が撮れるようになりました。それはカメラが、人と交わっていける魅力的なコミュニケーションツールだと思えた体験でした。

「カメラがなければ根暗のままだった」利島での体験で得た前向きさと強さ

きっとカメラがなければ自分はずっと根暗のままだったと思います。今ではカメラがあることで自分が興味関心がある場所ならどこでも潜り込んでいけます。

僕は、その地域の人たちと純粋に仲良くなりたいのかもしれないです。「受け入れられるためにはどうしたらいいだろう」と工夫をし続けた結果、知らない場所に飛び込んでいける強さが得られたのかなと思っています。それはエネルギーも使いますし、もちろん不安もいっぱいです。

だけど、自分にとって1ヶ所で仕事を淡々とやるよりかは毎日刺激があって楽しいです。病気だった頃を思い出すこともないくらいに充実していると思います。

そういった意味では、利島が自分を変えるきっかけになりました。人は環境が変わればやれないと思っていたことでもやれると思うんです。利島で撮影を始めてからは次第に性格も前向きになりましたし、堅かったのがフランクになったと思います(笑)

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「作品が評価され、結果が出た」大手広制作会社での仕事を獲得するも、地域への貢献を選択

利島で撮影した写真は作品としてまとめて、コニカミノルタが主催しているフォトプレミオ(※2017年終了)という賞に応募しました。新人写真家の登竜門と言われており、そこで評価されて賞を獲ることができました。

また、学校の卒業作品展で優秀作品にもノミネートされて。コツコツと継続していくうちに、あれよあれよと結果が出て、自分でもビックリしました。作品が評価されて、本当に嬉しかったです。

学校の卒業作品展の時に、大手広告制作会社の部長が来られて、利島やそれまで撮りためた写真を見ていただいたんです。それで「うちの会社受けてみたら」と声をかけてもらいました。面接を受けたら、内定をいただけて。

僕が評価されたのはドキュメンタリー作品でしたが、学校ではコマーシャルフォトについても学んでいたので、広告制作でも学んだことは活かせるかなと思いました。オールラウンドに何でもこなせるカメラマンになりたいという気持ちもあったので。

制作会社ではアシスタントとして1年間働き、その後フリーランスに転身しました。制作会社を辞めたのは、地域の仕事の存在が大きいです。それは会社を辞めないと、どうしても手をつけられない仕事でした。

あとは理由付けなんですが、30歳になるから節目だったということもあります。もしかすると、広告業界の気質が合わなかったのもあるかもしれません。

2度の挫折を経験 普通に働いている人たちに追いつきたい

僕は大きな夢を持っているとか、何か大きな野心があるわけではありません。強いて言うなら、伝えたいことを伝え、安定的に収入を得て、今後も普通の暮らしをするということに尽きます。

学生時代と社会に出た直後に2度の挫折を経験しています。自立できていないというもどかしさがあったので、普通に働いている人たちに今でも追いつこうとしているのかもしれません。

そのような中でも、地域のために貢献するために力をつけなきゃいけないとは考えています。まだまだ、個人でできることは限られているし、スキルも磨いていかなきゃいけません。やりたいことと自分ができることの差がまだまだでかいですね。

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「写真界は35歳までが新人、焦りはある」無理をしてでも作品を作り続ける

写真界では35歳までが、新人、若手と言われているので、ちょっとした焦りはあります。35歳が1つの区切りとなるので、それまでにチャンスを掴まなきゃと。

なので今は少し無理をしてでも、作品作りを行う必要があると思っています。また、有名な写真家にも弟子入りしました。

そのような行動は、ニコンが主催している公募で評価され、展示する機会を掴むという成果にもつながったと考えています。また、個人的に取材してきた地域から仕事をもらえるようにもなりました。でも、正直、写真界での成功が何かはわかりません。自分の中では、独り立ちした状態になりたいとは思っています。

あと、もっと実績やポジションを築くことで、自分の影響力を高めたいと思っています。そして、スキルをさらに向上させ、地域で起きている問題や課題を解決できる存在になりたいです。

極端に言えば、カメラだけに固執する必要はないと考えています。僕にとっては地域に貢献できることとが一番大事です。

苦労や不安は、きっと今後も続いていくでしょう。それでも、自分でやることを選び、行動を起こしてきたことで成果につながってきた経験があります。

だからこれからも「なんとかなるさ」という精神でやっていくだけです。

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