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お金で買えない幸福ーー失敗、挫折と向き合った35歳の経営者が考える生き方

3​ヶ月短期集中英会話スクール「スパルタ英会話」と起業スクール「キャッシュエンジン」を経営する35歳の田井譲(たい・ゆずる)さん。妻と1匹の愛犬と福岡県内で暮らしている。

大学卒業後、青年海外協力隊に参加。その後、大手企業に就職、転職を経て、現在は新進気鋭の実業家として活躍している。

「今の世の中、能力を引き出し切れていない人がたくさんいる。楽しいと思えない仕事を続けていたり、本当は別にやりたいことがあるのにきっかけがないから一歩を踏み出せなかったり。そんな人たちに、自分たちの持っているノウハウをしっかりと伝えることができたら、価値になると信じています」

強い信念を持って人生を歩む田井さんの生き方とは。

「人の能力を最大化するのが最高の幸せ」お金を稼いでも幸福度は変わらない

僕にとっては人の能力を引き出すこと、そのお手伝いをできることが最高の幸せです。

誰かの能力を引きしたいという気持ちは、僕のエゴから来ています。人が持つ能力を最大化するためのお手伝いが自分にとって一番ワクワクすることなんです。

よく起業家・経営者というと、お金儲けをして、東京のタワマンに住んで、贅沢の限りを尽くしてフェラーリで銀座の街をブイブイ言わせて走る、といったイメージを持たれることがありますが、自分にはそのような欲は全くありません。

もし仮にそれを実現したとしても、自分の中の幸福度は全然上がらない。フェラーリを買ったとしたら、幸福を感じるどころかぶつけないか常にヒヤヒヤしていると思います(笑)

自分が大切にしている価値観は何なんだろうって考えた時に、一番しっくりくるのは人の能力を最大化することだなと。あるいは家族や愛犬と家の近くの海岸をのんびりと散歩することです。

たとえば宝くじが当たって貯金が10億円になったとしても、きっと今と変わらない生活をします。毎日同じリーバイスのジーンズを履き、上はユニクロのセーターというスタイル。物質的には質素な生活かもしれませんが、それで幸福度は十分高く保てています。

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写真説明=いい天気の日に、愛犬とのんびりと過ごすのが最高の贅沢だと思う。お金を使わなくても手に入る豊かさは、数多くあると感じている

泣き言を子どもたちに言ったことがないエネルギッシュな母

父は商社マン、母は英語講師という家庭で育ちました。成人するまで父と一緒に同じ家で過ごした期間は5年にも満たないです。父はずっと単身赴任だったんです。

自分が物心ついた頃は、父はフィリピンに駐在していました。日本に戻ってきたと思ったら次は静岡に。やっと帰ってきたと思ったら、今度は一緒にマレーシアに行くことになりました。そこでは2年間一緒に暮らしました。その後、父はまた単身赴任で中国に10年以上駐在していました。

兄と妹がいて3人兄弟。今振り返ると母は苦労しただろうなと思います。子育てという面では母子家庭の様な感じだったかもしれません。

でも、家庭生活に一切不満はありませんでした。父がいないのが当たり前だと思っていたので、不満もないし、寂しいと感じたこともなかったです。兄弟もいるので、にぎやかだったということもそのような不満や寂しさを感じなかった理由かもしれません。

母は子どもたちが寂しくならないようにという思いから、常にケアをしっかりしてくれていました。母が泣き言を言っているのを見たことありません。かなりエネルギッシュで、ポジティブな人。それを間近で見てきたからこそ、僕は母と同じようにエネルギッシュに生きられているのかも。

そんな母のもとで育ったことも要因の一つかも知れませんが、ネガティブな人からは全力ダッシュで逃げるっていうことをいつも心がけています。人間は周りの環境の影響を死ぬほど受ける生き物だと思っているので、ネガティブな人とはできる限り関わらないようにする。それは多様性を受け入れないという訳ではありません。シンプルに自分のエネルギーが無駄に削られてしまうようなコミュニケーションを避けるということです。

すっからかんのまま大学を卒業するという危機感「カナダ留学で死ぬほど勉強」

大学ではアルバイトと空手部に打ち込む日々でした。空手は部活動以外に道場にも通うほど一生懸命やっていたんですが、肝心な勉強は質の高い学びができているという実感がありませんでした。

農学部だったのですが、2年生を終えた時点でアウトプットできることが何一つないということに気が付いて。残りの大学生活をこのまま終えたら、卒業する時にすっからかんのまま終わるという危機感を急に抱き始めたんです。

そんな焦りを持ち始めた時、たまたま大学の交換留学プログラムの案内をキャンパスで見かけました。春休みの2ヶ月間カナダのブリティッシュコロンビア大学という名門大学にいけるという内容。「これは身になるかもしれない」と思って、必死でアルバイトをしてお金を貯金して応募しました。

2ヶ月間で英語での最低限のコミュニケーションも取れるようになり、もっとしっかりと英語を学びたいと思うようになったんです。カナダで過ごした2ヶ月間は、自分の考え方や価値観を変える衝撃的な体験で、長期留学をしたら価値ある体験になると確信しました。それで僕は大学1年間休学するということを腹をくくって決めました。決断したあと、すぐ両親に「 1年間休学させて」と伝え、休学の費用と留学の費用を稼ぐためにアルバイトにまた打ち込みました。

カナダ留学では死ぬほど英語を勉強しました。「世界中の誰よりも自分は英語を勉強したぞ」と言えるくらいやったんです。3ヶ月おきに試験があるので、全ての科目で試験をパスできるように必死になってやりました。

空手についての長文のエッセイを書いたり、世界の核兵器問題についてのプレゼンテーションの準備をしたり。日本人と話すときも、ずっと英語を貫きました。

結果、全ての科目を毎回パスすることができ、最終的にはブリティッシュコロンビア大学に入学することができる英語レベルまで到達できたので、人生における自信が得られた留学でした。

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写真説明=交換留学時代の語学クラスの仲間たち。韓国人、台湾人、チリ人、日本人という面白い組み合わせのクラスだった

「1つの会社に入る=その会社で40年間勤める」という現実に対する戸惑い

帰国後、就活を始めなくてはいけませんでした。当時は「1つの会社に入る=その会社で40年間勤める」という世界観しかなかったんですよね。身近に起業家、経営者とか全然いなかったし。それに、父がずっと同じ会社で働いていたのも大きいです。だから、僕も就職したら父のようになるんだろうなと漠然と思っていました。

「大学を出て就職して、1つの会社に40年」みたいなことを本当に自分はやりたいのかなって考えたんです。正直、会社勤めを器用にやってのける自分が想像できませんでした。合同説明会などにも参加してみましたが、いまいちピンと来ませんでした。

偶然見つけた青年海外協力隊の募集「直感で申し込み、再び海外へ」

そんなときに、電車で青年海外協力隊の中吊り広告を見かけたんです。「こういうのあるんだ」と思って調べてみたら、「2年間開発途上国でボランティアをする」というものだったんです。これなら語学力も使えそうだし、すごく面白い体験になりそうだと。あまり深く考えずに応募は直感で決めて、青年海外協力隊に申し込みました。それで、再び海外に行くことに。

英語はできるようになったので、次は英語圏以外に行きたいなと思ったんです。もう1言語何かやりたいと。それじゃあ世界で2番目に使われているスペイン語がいいと考え言語を基準に行きたい国は選びました。僕はスペイン語圏のボリビアに派遣されることになりました。

2年間ボリビアに派遣「自分が去った後に意味あるものが残らないという不安」

ボリビアでは子どもたちに空手と算数を教えました。やはり、言葉の壁はあってうまく言葉を使って自分が思っていることを相手に伝えられない。もちろん、英語を学ぶときも言葉の壁はあリましたが、スペイン語ではできなくてつらいという気持ちをより強く味わいました。

本当に自分は語学のセンスないなと。派遣された最初のタイミングではずっと「自分は頭が悪すぎるだろう」と思っていました。

それで、自分がボリビアで2年滞在したとしても、意味あるものを何も残せないんじゃないかとネガティブな方向に考えてしまったんです。自分ひとりで悶々とその不安について考えていましたね。とはいえ、嘆いているだけではダメ。スペイン語の本を買ってきて、それを一生懸命声に出して読んだり、地道なコツコツ系の努力もほそぼそとやったりしていました。

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写真説明=ボリビアでの1枚、空手のクラスを通じて子どもたちと交流ができた。スペイン語も、徐々に上達して自信につながった

子どもの教育を通して得られた小さな成功体験「今でも心に焼き付いている」

悩みながらもコツコツと努力を続けていく中で、うれしい出来事もありました。自分が算数を教えたことで、子どもたちの計算力がバーンと伸びたんです。ボリビアの子どもたちは小学校6年生になっても二桁の足し算とか掛け算ができていない子が多いことに気付いたんです。それで100マス計算というのがあるんですけど、それを活用してトレーニングをしてみた結果、とても効果がありました。

例えば、中に一人、繰り上がりの概念が分かっていなくて、毎回テストでバツをもらっていた子がいたんですよね。その子に繰り上がりを丁寧に説明をして、一緒にトレーニングをやったらすごいできるようになって、めちゃくちゃ嬉しそうな表情で「私こんなのかんたんよ」って言ってくれたんですよ。

人から見れば小さな出来事かもしれませんが、自分にとっては大きな成功体験として今でも心に焼き付いています。そして、できなかったことができるようになるお手伝いってすごく楽しいとその時感じました。

子どもたちに向けた教育事業に取り組む中で、今後の人生の中で若者に対して何かを教えたり、サポートをしたりする仕事を絶対にやるという決意が芽生えました。

「社会人経験は必ず教育業界で価値になる」帰国後、就活をスタート

人に教えたり、サポートをしたりする仕事をやるということは決められましたが、青年海外協力隊の2年間を終えて、すぐに教育の仕事をしたいとは思いませんでした。自分は大卒後、ビジネスパーソンとしての経験がないまますぐにボランティアに行ってしまったので、まずは一度それを経験したいと思ったんです。

よく、日本の社会人といえば、満員電車に揺られて通勤して、ミスで上司から怒られて、仕事が終わったら居酒屋で同僚と飲み、愚痴をこぼし、ウサを晴らす。典型的なサラリーマン像みたいなのがあるじゃないですか。僕はそういうのが全然ピンとこなかった。

でも、ビジネスパーソンとして働いた経験は必ず教育業界に戻ってきた時に生きるだろうとも思いました。「自分はこういうことをやって、今まで働いてきた」と自分の言葉で語ることができるっていうのは、絶対に価値になると感じました。そのような考えを持って、どういった分野に興味があるか自分でも分からないながらも新卒に混ざりながら就職活動を始めました。

「僕みたいなアウトローも楽しく仕事できるかも」一芸採用で、富士通に就職

どんな会社に入ろうかなと迷っていた時に、面白い採用方式をやっている会社を見つけたんです。それがチャレンジ&イノベーションという採用方式を行っていた富士通でした。いわゆる一芸採用です。

何か一芸に秀でている人たちというのは、根性とか諦めずにやり抜いたり、失敗してもくじけずに色々なPDCAを回したりするマインドセットを持っているはずという前提に基づいた採用。志望動機がなくても会社で活躍できるだろうと会社が判断してくれるのは面白いと思って、すぐに申し込みました。

一芸採用のような先進的な取り組みをしている会社だったら、僕みたいなアウトローなキャリアを積んでいるタイプでも楽しく働けるかなと思ったことも応募した理由の1つでした。僕は青年海外協力隊の経験を一芸として披露した結果、無事に採用されました。

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写真説明=青年海外協力隊帰国後、東南アジアバックパッカーの一人旅へ。インドでは同じような一人旅の仲間と出会った

富士通時代は自分の人生の波の中で停滞していた

就職はできましたが、今振り返ると富士通時代は人生の中でも停滞していた時期でした。

僕は小売業のお客さんに対してシステム、サーバー、パソコンなどIT商材を売る営業職を担当しました。大手企業を担当したんですが「営業は奴隷だ」ということを言うお客さまで。人がたくさんいるところで「俺の奴隷の〇〇がよ〜」とか言っちゃうんです。僕にとっては最初のお客さまだったので「これが社会人か」と洗礼を受けた気持ちになりました。今で言うところの「モンスター系のお客さま」とのやり取りに日々心を削られました。

それが自分にとってのはじめての「お客さま」だったことや、他の人達が当たり前にそれに対応していたこともあり、対応しきれない自分の我慢が足りないのだと思っていました。

さらに直属の上司との折り合いもつきませんでした。理想の働き方や成果の出し方といった仕事に対する価値観が全然違っていたんです。あと、社内で根回しする時間や、社内ルール・システムを調べるための時間がすごく多くて。お客さまに対しての価値提供に関係ないところでエネルギーをずっと使っている状態が僕にはしんどかったです。

働いて分かったことは、大企業で働くことは自分の理想の働き方とは違うかもしれないということ。あと、がちがちに仕組みが決まってている組織は、自分の性に合っていないなと感じました。もちろん、大企業の中でもそれを上手に使って学びに変えていく人もいると思うのですが、当時の自分にはそれだけのスキルやマインドセットはありませんでした。

出社前の1時間、ノートに将来なりたい状態を書き殴る

違和感を持ち始めてからは、毎朝出社前の朝7時くらいにカフェに行き、ノートに自分の思い描いていることを1時間ひたすら書きました。5年後にはこういう状態になっていよう、10年後にはこういう状態になっていようっていうことをノートは見返さず、頭に浮かんだら書き殴っていましたね。

当時書いていたのは、福岡に移住、海の近くに住む、仲間と共にベンチャー企業を経営する、楽しいことだけを仕事にする、完全オンラインの働き方をしたいといったことを書いていて、2021年の今、大体叶っているので自分でもびっくりです。

自分がなりたい状態をノートに毎日書きなぐることで、将来のビジョンが具体的になり、富士通を辞めることも前向きに決断できました。退職後は、2年間英会話スクールの先生やって子どもたちに英会話を教えていました。その頃、富士通時代に知り合った友人に、スパルタ英会話という英会話スクールを一緒にやらないかと声をかけられて、一緒に起業しました。

置かれた場所で咲きなさいは半分は真実、半分は危険

つらさについて富士通時代によく考えたことがあるんです。つらさや負荷には大きく2つあると思っています。1つは頑張れば頑張った分だけ力がついて、強くなれるっていうパターンのつらさです。ダンベルを持ち上げている時のような負荷。あるいは、難しい資料を8時間かけて作成する、といったものです。こちらは続けていくと力がついてどんどん耐えられるようになります。8時間かかった資料も、鍛えられていくと2時間でできるようになります。

一方で、世の中には、もう1つの実にならないつらさがあるんです。例えるなら寒い中で縮こまっていき、体力を奪われていく負荷ですね。パワハラ上司がいる職場で、隣の先輩が怒鳴られているのを毎日隣で聞いているとか。「お前のようなやつはいくら頑張ってもダメだ」というこういう罵声を浴びせられる。罵声を浴びせられて5年後、10年後、能力が10倍になるかといったら当然なりません。心が削られて行く一方です。そういったつらさは何の実にもなりません。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉ありますが、半分は真実だけど、半分は危険なこともあると思っています。続けることもやめることも、どちらも正解じゃないですか。でも、日本の教育はどちらかというと、「石の上にも3年」の精神を奨励して、我慢することを美徳とする風潮があると思います。だから、僕は「削られるつらさ」を感じる環境からは、逃げたほうがいいと言っています。合わない職場から離れることを僕は積極的に今の仕事を通して応援したいなと思っています。

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人のハッピーは金銭だけでは埋められない

幸福度の度合いって金銭的なものが多ければ、多いほどハッピーになっていくというものではありません。ハッピーというのは人によっても当然変わってくるし、金銭だけではどうしても埋められないところがきっとあるんだろうなと思うんです。

じゃあ自分にとって金銭では埋められない、自分固有の一番のハッピーって何なのかよくよく突き詰めて考えたら、それは人の能力を最大化することでした。

もちろん、人によっては会社員であることも1つの幸せだと思うんです。でも、世の中には起業したほうがハッピーになれる人もいます。そして、そのやり方が分からない人もたくさんいるんです。だからそういう起業のやり方が分からない人をサポートできる今の起業スクールの仕事は生きがいでもありますし、自分が一番好きなことでもあります。

今生きていて毎日ワクワクしていますし、これからもワクワクし続けていきたいと思います。

編集後記】これまで経営者はどことなく遠い存在であり、最初から優秀な人たちであると感じて生きてきました。それをいい意味で覆してくれたのが田井譲さん。失敗、挫折、悔しさ、苦労を乗り越え、何度も立ち上がり、挑戦してきた過去をお聞きして、人間臭さを感じ、とても好感を持ちました。学生時代に何も学んだことがないという焦りから留学したことが現在につながるスタート地点。人生というのは様々なきっかけの積み重ねの上に成り立っているということを感じさせます。もし、現在、大きな壁に阻まれている人、苦しさを抱えている人、自分に自信を無くしている人がいれば、長い人生を考えた時にそれも意味があるものと捉えてみませんか。経営者として成功している田井さんもそうだったのですから。苦しみの中でも、1ミリは前進する気持ちを持ち、今日、明日を生きたいものです。



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