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無意味/有意味との戯れ (岸本佐知子『ねにもつタイプ』)

さいきん気分が落ち込んでいる。なんでかは知らない。落ち込みは鬱陶しい。できるだけいつも上機嫌でいたい。

でも気分というのは落ち込むときは落ち込む。忌々しいけれども、そういうものなんだから仕方ない。なので愉快な本を読む。

岸本佐知子のエッセイは愉快だ。その脱力的なユーモアは鬱憤を忘れさせてくれる。色んな鬱屈した気分が遠のく感じがする。

「気がつかない星人」には、言葉のレトリックが通じない。八百屋のおばさんに「はい、百万円ね」と言われて凍りつく。写真屋のおじさんに「鳩が出ますよー」と言われて、いつまでも待ちつづける。『さっちゃん』という童謡を、冗談で「あれはあなたがモデルよ」と大人に言われたのを真に受けて、大きくなるまで信じている。

「星人」

「気がつかない星人」は言葉を文字通りに受け取る。だから、意味をスリップさせるようなレトリカルな言い回しは通用しない。

逆に、非-気がつかない星人(というか)は、文字通りにではなくて、前後の文脈だとか、言葉の発されたシチュエーションを踏まえて受け取る。だから、八百屋のおばさんに「百万円」と言われても、あるいはそれが発言に反して百万円ではなかったとしても驚かない。それが「百万円ではない」ことは、非-文字通り的に明らかだから。

それまで気にもとめていなかったことが、突然どうしようもなく変に思える瞬間がある。[…]まず「人間」という字が読めなくなる。人間? 何と読むのだっけ? じんかん? たしかこの言葉はヒトを意味していたはずだが、だったらなぜ「人」の「間」なのか。人と人の間ならば、何もない空間だ。何もない空間がヒトだというのか?

「じんかん」

この「変に思える瞬間」もまた、言葉を文字通りに捉えようとする、し過ぎることに関連しているように思う。

たしかに文字通りには、「人」は「じん」と読めるし、「間」は「かん」と読める。そして「人のあいだ」は、あいだであるからには何もない空間であって「ヒト」ではない。

たしかに、それはそうではあるのだけど、実際に「人間」は「にんげん」だし、それは「ヒト」のことだ。

でも少し考えてみれば、「人間」を「じんかん」ではなく「にんげん」読むこと、それが「ヒト」を意味することには、合理的な根拠のようなものはない。なんというか歴史的な経緯、ローカルな慣習でそうなっているだけだ。

その根拠について掘り下げると、ほどなく「これまでそうだったから、そう」という身も蓋もない根拠が待ち受けている。

ソシュールによれば、シニフィエとシニフィアンの結びつきは恣意的なものであって、そこに必然性はない。だから、日本語以外では「ningen」という音は「ヒト」を意味しない。

シニフィアンの形式(綴り)とその音声についても同じことが言える。「station」という文字列は、英語では「ステーション」に近い発音で、フランス語では「スタスィヨン」に近い。

言葉は、数学の定理のように普遍性のあるものではない。普遍的だったら、世界中で同じ言語が流通しているだろう。

言葉には「ただ、とにかくそうだからそう」という身も蓋もなさがある。だから、過剰に文字通りに捉えることにこだわれば、その根拠である自明性は解体され、意味は見失われてしまう。

たとえば、何も考えずにぼんやりしているような時に、心の片隅で小さく「ホッホグルグル」とつぶやく声がする。一度これが聞こえてしまうと、もうだめだ。その日はいちにちホッホグルグルの日となる。

「ホッホグルグル問題」

これもパンチのあるエピソードで好きだ。あるメロディが耳に残って離れない、ということはよくある。にしても、「ホッホグルグル」はあまりにも強烈な字面ではないか。

この「ホッホグルグル」は、なんというか、非言語的な音声と、意味ある記号的言語のはざま、その閾にある綴りのように感じる。

オノマトペじみているけど、なにを表そうとしているのかさっぱりわからない。しかし意味に近いイメージのようなもの(グルグルは腕を回しているようだし、ホッホはなんかゴリラみたいだ)を感じずにはいられない。

けれど、言葉は慣習的なものである。使われているうちに当たり前のものになることで、他者と意思疎通可能な意味を獲得する。たぶん「ホッホグルグル」なんて慣習はない。いや、僕が知らないだけで、あるのかもしれないけど、少なくとも市民権を獲得してはいない。と思う……。

僕はこのエッセイを読んで、太宰治の「トカトントン」を連想した。この短編では、どこからか聴こえてくる「トカトントン」という釘を打つ音を聴くことで、あらゆる決意や感情が萎えてしまう。

意味の彼方からやってくる声によって、そこにある意味が「意味未満の声」に上書きされ、精神が意味未満の世界に連れ去られてしまうように。

意味未満の声、ということでもう一つ思い出されるのは、プリーモ・レーヴィの『終戦』に登場するフルビネクと呼ばれる少年の声だ。

フルビネクは言葉を話せない。けれどあるとき彼は、ある音の連なりを執拗に繰り返し発音する。その声を、著者のレーヴィは「mass-klo あるいは matisklo」と書き取る。結局その声の意味はわからずじまいに終わる。

これもまた、まだ意味を受肉する前の言語の胎児のような、音と意味の関係から自由な喃語よりも形式めいているけれど、いまだ象徴界的な他者との関係には入っていない、不可能な私的言語のような声ではないだろうか。

この「mass-klo あるいは matisklo」という綴りは、「もはや無意味ではない」が、同時に「いまだ意味を持たない」というはざまで宙吊りになっている。「無意味/有意味」のあいだの「/」に位置するような、意味未満の声。

僕が「ホッホグルグル」に感じるのは、こうしたはざまから来ているような印象だ。

それは無意味と切り捨てることができないほどには言葉めいている。何かを伝えようと呼びかけているように感じずにはいられない。しかし、意味を聴き取ることができる段階にはないから、その呼びかけに応えたいと思いながら、諦めてそのシニフィエなきシニフィアンの前に立ち尽くすほかない。

トカトントンや「mass-klo あるいは matisklo」の前に、無力感と共にたたずむほかないように。

ところで、僕が好きなのは、このエピソードが、そうした僕の印象を裏切るように、次のように締められているところだ。

そうなったらもう、踊るしかない。

「ホッホグルグル問題」

著者はトカトントンの回帰によって気力を萎えさせられるのと反対に、そうした意味の彼方からやってくる、しかし無意味とも言い難いシニフィアンにノってしまう。

文字通りに捉えすぎることで、「人間」を「じんかん」に解体してしまういっぽうで、ここではその意味の聴き取れなさに開き直るように、その声の音楽的側面へと乗り換える。

意味と形式へのオブセッションからの、この軽やかな転身。こうなると、トカトントンもホッホグルグルも、詩のリフレインと区別がつかないように思える。

言葉を無意味化するかと思えば、意味未満の声と戯れるような、この自由さ。こういうところが、落ち込んでるときに読むと心を軽くしてくれるところだと思う。僕ももう少し踊ったほうがいい。

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