多和田葉子『言葉と歩く日記』
白状すると、読んでいて肩が凝った。
言葉と歩く、という題から、どこかゆるいものをイメージしていたのかもしれない。読んでみると、引き締まっている感じがした。
「批判精神」という言葉が浮かぶ。多和田さんはドイツ在住で、ドイツ語で執筆もされている。「批判」と「ドイツ」にはどこか通じるイメージがある。たとえばドイツの哲学者カントは、三批判書をドイツ語で書いた。
と、安易な連想で片付けると、叱られてしまいそうである。この「叱られてしまいそう」という感覚に、肩が凝ったのだった。でもそれは心地よい疲労感でもあった。その緊張感が、読書への集中を高めてくれたように思う。
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批判といっても、「他人の欠点をあげつらう」というニュアンスではない。私の感じたのは「ものごとに疑いを持つ、持ち続ける」という意味での批判の精神だ。
『言葉と歩く日記』なのだから、疑いは言葉に関するものになる。疑われるのは言葉そのものではない。それを使う私たちの態度だ。次の文章を読んでみてほしい。
言葉を話すとき、その背後にある法則性についていちいち考えることはしない。少なくとも母語では、しない。
その意味で、私たちは感覚で言葉を話している。
だが、意識しなくても、言葉には文法があり、慣習があり、諸々の規則がある。私たちが感覚で選んでいる言葉遣いの背後には、法則がある。
「ビールする」はおかしいという判断を、「センスの問題」として片付けてしまう態度。それが、ここで批判されている(疑われている)対象だ。批判とは、決めつけないこと、思い込みを疑うこと、問い続けることだ。
「黙る」に対象はない。という思い込みに、疑いを向ける。本当にそうか? それでいいのか? と。「文法に思考を譲り渡してはいけない」と、文法との関わりかたすらも疑う。
ここでも、疑われているのは文法そのもの、法則そのものではない。私たちの「これが文法だ」という決めつけに、批判がされている。
古代のヒトが言葉を話し始めたとき、文法書を読んで学んだ、なんてことはありえない。文法が人の話す言葉から発見されたのであって、その逆ではない。
自然科学の教科書が書き直されるように、あらゆる法則(正確には、法則についての人の理解)は仮のものだ。「黙る」が目的語をとらないこともまた、変わるかもしれない。
疑いが、言葉のポテンシャルを想像させる。その仮想的な言葉の世界で、わたしは、何を・黙るのか。そんな問いが浮かぶ。
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次に引用するのは、英語に関するドイツ人留学生の感想への批判だ。彼は英語だと「僕は今ナーバスだ」など、ドイツ語を話しているときはしないような、自分の感情表現をよく口にするという。
実は、自分も「英語だと感情を表現しやすい」と思っている一人である。ここで批判されているのは、ドイツ人留学生の彼だけではない。
社会規範として、ある言い回しが要請されることがある。そのとき、そうした定型的なフレーズは、言葉自体の意味を表現しているのか。
たとえば、ビジネスメールの定型文。「お世話になっております」と送るとき、ほんとうに「この人にはいつもお世話になっていてありがたいなあ」と思いながら文字を入力しているか。あるいは逆に、実際にそう思っているとき「お世話になっております」だけで済ませるか。
相手に心から感謝して、それを伝えたいと思ったとき、人は決して「ビジネスメールの定型」でそれが十分に果たされるとは考えない。言われた方だって、「先日はありがとうございました」や「いつも大変お世話になっております」で、「この人は自分に感謝しているのだなあ」とは思わない。
すると、「英語だと感情を表現しやすい」とは、ひょっとすると、「ビジネスメールだと感謝を表現しやすい」くらい、間の抜けた発言かもしれない。
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と、批判を受けて「おれって間抜けかも……」と反省してみたものの、やはり私は「英語だと感情を表現しやすい」と思う。思う、と述べるだけでは、批判を無視してるのと変わらないので、なぜそう思うのか、自分なりに説明してみる。
先の喩えでみた通り、挨拶がわりの「お世話になっております」は、「お世話になっております」という意味を表現していない。こうした定型文は、形式に則った言葉を交わすことで礼儀や社会性をパフォーマンスしている。
日本語では無意識のうちに、こうした外的な要請に影響されて、言葉を選別している。褒められたとき、「恐縮です」と返すこともあれば、「ありがとうございます」と応えることもある。場面によって、相手によって反応は変わる。
私の場合、英語ではあまりそういうことが起きない。なぜなら、単にそういう器用なことができないからである。
まず返事や社交辞令のレパートリーが少ない。語彙が少ない。また、英語社会のコードに不安内だから、「この場に相応しい言い回しは何か」を判別できない。だから、自分の言葉への検閲が、母語と比べてずっと弱くなる。
「この言い方は失礼かも」とか「ちょっとダサいかな?」とか、検出・検討する能力が育っていないのだ。仮に英語で褒められたら、無邪気に「really? I'm so glad that you said that! thank you so much!」とか、言うような気がする。
I'm so happy.
I feel so energized.
I'm gonna miss you.
こういうストレートな言い回しは、日本語ではそう簡単には出ない。ちょっと恥ずかしく感じる。試しに「僕はとても幸せだ」と書いてみる。やはり不自然で、わざと言っているように聴こえる。
「英語だと感情を表現しやすい」というのは、必ずしも「英語は感情を表現しやすい言語だ」を意味しない。私にとっての(そしてひょっとしたら、ドイツ人留学生の彼にとっての)英語は、非-母語であることによって、規範から自由な部分がある。だから、「私にとっては」、英語だと感情を表現しやすい。
それは幼児期と関わっているように思う。英語では「幼児期」を infancy という。
infancy は、ラテン語 fari(話す)の現在分詞 fans に、否定の接頭辞 in- を足した語 infans(黙る・話さぬ者)に由来する。infans の時期、すなわち「話せない時期」が、幼児期 infancy なのだ。
まだ話せない第二言語を習得することは、過ぎ去った infancy を再び通過することにほかならない。私たちはそこで、もう一度 infans な infant(幼児)としての自己を生きる。
第二言語では、母語ほど気の利いた返事はできない。しかしそれゆえに、母語よりも率直な言葉が出てくることもある。「外国語を話せない」という不可能性の裏面には、その言語を「話さないことができる」というポテンシャルが潜勢している。
「みんなが挨拶代わりに気楽に「エキサイトしている」と言える社会、言う事を期待されている社会では、「エキサイトしている」と言っただけでは感情を表現したことにならないのではないか」という、多和田さんの批判はもっともだ。
だが、留学生の口から非-母語で語られた「エキサイトしている」は、社会に期待されているから、という規範意識から出た言葉ではなく、それよりずっと幼い場所から響いているのではないか。
その幼い場所、infancy を自分のなかに温めておくこと。それは「文法に思考を譲り渡さない」ことにも通じているように、私には思われる。
たとえば、「黙る」に目的語をとることは、文法的な逸脱だ。それは、一見すると「言い間違い」と区別がつかない。「言い間違い」は、文法規則が無意識レベルまで定着していないから、言い換えれば、規範に縛られていないからこそ可能になる。言葉が曖昧な幼児ほど、大人には考えもつかないような言い間違いを、言い間違えることができる。
「文法に思考を譲り渡さない」とは、別の言葉の使い方、言い間違いの可能性に自分を開いておくことだ。「ふつう」とされる言葉遣いへの懐疑から、新しい言葉の用法へ飛躍するには、規範から逃れる幼児性を、infancy な部分を抱えておくことが必要なのではないか。
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と、気づいたら自分も「批判」の真似事のようなものを書いている。実際にやってみてわかるのは、批判は書くのも肩が凝る、ということ。批判の鍛錬が足りないからだろう。
なんだか多和田さんから、稽古をつけていただいたような気分である。言葉と歩く稽古。
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