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はじめてのスピノザ 自由へのエチカ/國分功一郎

自由って、一言で言うのは簡単だ。でも自由は本当に扱いづらくて、難しくて厄介。そして皆自由がなんなのか、いつもわからないままだ。

スピノザは17世紀のオランダの哲学者だ🇳🇱
彼の哲学は、"コナトゥス"という、自分の存在を維持しようとする"力"がその人の本質であると述べる。(簡単に言えば、体の水分量が減れば私たちは喉が渇いて水を飲むように、常に我々の中で働いている力なのだ)この彼の考えは哲学史の観点から見れば大きな概念の転換となったらしい。当時の哲学では元々、本質は"形"であったのだという。そのことは"エイドス"と呼ばれ「見かけ」や「外見」を意味する。
🐎例えば、競馬場で見る馬とサバンナにいる野生のシマウマでは、家畜化された方の馬は背中に人を乗せる事ができるが、野生のシマウマのほうは人を乗せることはできない。なのに外見が同じなので、"馬"と括られる🦓
このエイドス的な考えは、人間についても言えることで、例えば女は外見が女なので「貴女は女であることが本質なので女らしくしなさい」という判断になる。つまり男は男らしく、女は女らしく、と規定されてしまうのだ。そう、これは私たちの生きる社会に大きく影響してしまっているではないか。
それに対してスピノザは、各個体の持つ"力"に目を向けこれこそが本質だと考えた。彼の哲学には、男だから、女だから、という考えなど出てくる余地もないのだ。

現代の私たちが何かを視る時に"こうあるべき"という一般的観念(=偏見)と比較してしまうのに対し、遥か300年以上も前にスピノザは、"全ての個体はそれぞれにして完成している"と述べる。これは心身の障害(マジョリティ側から形成された一般的観念に基づいた判断にすぎない)にも当てはまり、例え手や足が無くとも、それは一個の完全な個体だということだ。
そして善悪についても、自然界にはそれ自体として善いものも悪いものもないのだそうだ。善悪は、物事の組み合わせによって生まれる。例えば、トリカブトは、完全な植物🌿として自然界に存在しているだけだが、人間の中に入ると毒になってしまう。例えば落ち込んだ人が音楽を聴くと元気になったとしても、深く傷ついている人にとっては音楽は聴きたくないかもしれない。耳が不自由な人にとっては音楽は善くも悪くもない👂こういったようにうまく組み合わさるものと組み合わさらないものがあり、それが善悪の起源なのだそうだ。

話を自由に戻すと…スピノザ哲学的には自由とは、必然性に従うことだという。
普通必然と自由は対立すると考えられるが、そうではなく、自らの必然性によって存在したり行動している時こそ、その人は自由なんだという。
例えば、私には2本の足があり、その決められた可動域の中でどこかへ歩いて行くことができるし、自転車を漕ぐ事ができる。それだけで、すでにもう自由なのである👣🐾

そして、スピノザによれば、自由意志というものは存在しない。
「我々は自由の話になると、すぐに意志の自由のことを考える。人間には自由な"意志"があって、その意志に基づいて行動することが自由だと思ってしまう」
自由とは、自発性のことでもない。自発的であるとは、自分が純粋な出発点となって何かをなすことを言う。スピノザ哲学的には、いかなる行為にも原因がある。我々が自発的に何かしたと思えるのは、単にその原因を意識できていないからだそう。我々の意識は、結果だけを受け取るようにできているので、原因までを思い出すことはできないらしい。

しかし人は、「意思の自由」や「自由意志」を否定することへの強い抵抗感を持っている。それほど皆、人間の行為をただ意志だけが決定していると信じ込んでいるからだ。行為は実際には多くの要因によって規定されているという。

私たちは、「意志」といわれるものに振り回され、自由を勘違いする。
著者は、現代社会にはびこる意志への過剰なほどの信仰を「意志教の時代」と呼び懸念する。現代ほど意志、意思決定、選択、といったものが盛んに言われる時代も珍しく、現代人は意志に取り憑かれ、意志に悩まされていると言う。この、意志なる概念は、普遍的に存在するものではない。プラトンの「魂の三区分」である知性、欲望、気概の中にも意志の場所はなく、ではいつからどうやって意志が始まったのか、確定することすら困難なのだそうだ。

「これは自分の意志で決めたことだから」、「ご自身の意志で選択なさったことなので、責任はご自身にあります」なるほどよく耳にする台詞にも確かに意志はやたらと主張してくる🧐何もかも自分の意志で決めたことだと考えると必要のない罪悪感まで感じてしまうし、不必要に連呼される意志は生きる上で明らかに負荷になる。意志という言葉をエサに我々の根底に自己責任論を根付かせようとしている社会の大きい黒いモヤが見える気がして嫌になってきてしまう。

自由を知るためにスピノザを読んで、著者の意志信仰に対する懸念に触れると、自分の中で再び新自由主義に対する懐疑心が首をもたげた。結局この現代、意志という言葉を使って人々は自己責任論を押し付けられているような気がする。話が大きく逸れてしまいそうなので、別の本もこれから読んでみようと思う📖

最初、スピノザの「自由へのエチカ」を読みたかったのですが、自分には難しそうなので、入門書のような本を探していた時に出会ったこちらを読んでみました。以前國分功一郎さんが本でスピノザの話をしきりにしていたのを思い出して🍵これもなかなか難しかった🤯
でも読んでみると、現代人にとってとても励みになる哲学なのではないかと思う😳
エイドス的な考えを重視するところは現代でも時折見られるし、それと対になる哲学としても皆が胸に留めておければ少し自由になれるのでは🍵
そしてもうすでに自由、という体感をいつでも得れるのだと思うと、私もいくらかポジティブになれます💐

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