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帰省に憧れがある話

私たちはそのとき、並んで九州の山道を歩いていた。もうすぐいくと砂浜に面したレストランに突き当たる。日の入りの時間にはゆるやかに赤い陽射しが溶けていく海を眺めながら、彼はモヒートを、私はビールを飲むのだ。

2022年の夏休み、お盆のムードは真っ盛り。彼の帰省に付き合って、私ははじめての九州に、都会と自然が共生するアウフヘーベンに、酔いしれていた。

アクティビティの類は正直、苦手だけれど、アウトドアは好きだ。自然を感じるのは一瞬では終わらないし、そこには余白があるからして。アクティビティをするつもりがなかったからハルタのローファーを履いてきたのだけれど、この山道も歩きやすいのだから失敗じゃなかった。いつも思うけれど、ローファーは可愛いのにこんなにも歩きやすいのだから、本当にすごい。

「昔はさ、こんな感じの田圃を見ながら、毎日ランドセル背負って歩いてたんだ」

彼は私よりも頭ひとつぶんは背が高い。だから目前に広がる牧歌的な田園風景の向こう側を見つめるいま、その表情はこちらからは見えない。けれどその優しい声色から、彼がきっと目尻にあの優しい笑い皺を作っているのだとわかる。もう戻れない、でも彼の中には燦然と輝き続けるあの日々。

それは、プラスチックでできたスカイブルーのかばんを引っさげて川へと走ったあのお昼どき。はたまた、友達とパピコを半分こしながらテストの点数を競ったあの放課後。どうしてもあと少しのところで振るわずに練習試合で負けてしまって悔し泣きしながら歩いたあの夕暮れどき。

「故郷に帰ってくるとね、良いなあと思うよ。昔はわからなかった田舎の美しさが、今になって分かるようになってきたんだ」

彼の言葉に私はなるほどと頷いて、「自然の景色はそのままで美しいと思うけれど、あなたにとっては、生まれてから当たり前にあったんだもんね」

まだ冷え切っていない夕焼けどきの山の空気は暖かく、頬を撫でられても東京のような陰湿なほどべっとりした暑さがなくて気持ちがいい。
ほどなくして道が開け、目の前には川が流れていた。そこを曲がるとレストランに続く道のようだったが、川の向こうには橋がかかり、その奥に大きな山々が広がっているのが見えて、思わず歩みを止めてしまう。

そこに広がる山は雄大で力強く、けれど横たわった女の体みたいで、不思議と妖艶だった。羽ばたいていく鳥が目に入る。女の体に命が宿るように、そこでは鳥や虫や魚が、今も呼吸をしている。風は木々を揺らし、草花に不均一ながら美しいリズムを与えて、そのひとつひとつが、目の前にある山々を作り上げている。

その命は堂々として大きい。誰かに作られたのではなく、悠久のときを経てずっとそこに在る山という命について思う。
しかくいビルや集合住宅に遮られることを免れた陽の光に抱きしめられて、命はそこに在るのだった。気の遠くなるほど大きな命のサイクル。

18時36分発、23時36分東京着。
自分の帰省なのに、仕事だからと先に帰った彼のことを思いながら九州をひとりでもう少し楽しんだ。せっかくなら九州から地続きで東京が存在していることを確かめたくて、クソ長い新幹線に乗り込む。1人の新幹線はしばらくぶりのことだったから、隣に座る誰かの匂いを感じることもなく、白い車内はなんだか病院にも似て、無機質に感じられた。

小さなシルバーのキャリーケースを持ち込んでやっとこさ、気づけば座ることもう4時間経つ。さながら、水曜どうでしょうみたいな気持ちになる。けれど私には一緒に乗り込む仲間はおらず、サイコロを降って目的地を決めた訳でもなかった。東京は、私が自発的に行き先として選んだ街ではなく、自分で人生を決めることができなかったときに既に決まっていた、私の故郷なのだった。

特に大人になってから、帰省をしてみたいと思うようになった。東京が原理的には故郷なのだから、帰省をしてみたいというのは既に叶った願いを反芻するようで、言葉を間違えてもいる。

でも東京で生まれ育って東京で今も生活していると、生活の中心になっている土地と帰る先としての生まれ育った土地が一緒くたになる。勤め先の人に東京生まれだというと驚かれ、折に触れて帰省するんですという言葉を聞くときに思う、心理的な帰省が、私にはできないのだと。

ギターとなけなしの金と夢だけ持って上京してみる19歳に憧れる。せいぜい200円程度で東京駅に行くことができるなら、文字通りの上京とは言えないだろう。だから私は、子どもの頃から生活がずっと地続きで、お盆や正月など折に触れて生まれ育った土地に帰省して、自分を初期化するような初期装備もないのである。
それは常に同じ組織に身を置くしかなく、環境を変える術を知らない学生時代の閉塞感であり、リアルの友達を組織ごちゃ混ぜでフォローしている「リア垢」の、他人から見える自分をざっくりひとつの「キャラ」に統合しなければいけない鬱屈だった。

東京で誰かがコンクリートの地面を踏みしめて電車に乗り、街から街へと移動して広告に囲まれて、消費の大きなサイクルにいるそのときも、他方で地続きのどこかでは、気が遠くなるほど命をそばに感じる誰かもまたいるのだ。
例えば私には私の時間が流れていて、彼には彼の時間が流れている。どうしようもないくらい人と人とは違う道を歩むものであって、それは自分では選べない不可逆の運命的な、高次の存在的な何かによって決まったものであって、でもそれはなにかのきっかけで交わって気持ちと気持ちが交差して、そこに1人だけでは生まれ得ない感情が宿る。

帰省ができないと思うから思うだけ、旅行からの帰り道が私にとっては帰省のようなものなのかもしれないと思う。雄大な自然が広がる九州からがたんごとん、6時間も新幹線に揺られていれば、高速で人々の生活を横切りながら人が出会う一切合切について考えを巡らせてもしまうものなのだと思いはじめる。帰省することができる人はみな、目の前の風景が自分の故郷に差し掛かるとき、自分の思い出を相対化して、とてつもなく力強く目の前に広がる何かに想いを馳せるものなのだろうか。

窓から見える景色はすでに東京駅にほど近い、幾度となく見てきた風景に変わっていた。
東京のありふれた街角を、街灯のオレンジが照らし出す。そこには縦長で庭のない一軒家、ベランダでは母親と思われる女性がブルーのジーンズを取り込んでいる。子供の迎えに急がなくてはいけないのか、やや乱雑な手つきで。はたまた歩道ではチェックのネルシャツを着たおじいさんが少し歩みの遅いおばあさんの手を引きながら帰路をゆき、その道に面する閉店間際の居酒屋の窓からは、アルバイトらしき若い女性が横顔で一生懸命にテーブルを拭いているのが見えるようだ。

東京駅に着くと彼からのラインが鳴って、改札を抜けるとそこに見慣れたマスクの笑顔があった。

私たちはお互いを強く抱きしめる。誰かを強く抱きしめると、なぜ自分の鼓動がいつもより近く、大きく感じられるのだろう。自分の命は自分の中だけに存在しているのに、他の人と触れ合ったとき、より克明に生きていることを感じられるから不思議だ。自分の輪郭は自分のものなのに、他人とのリフレクションを通してはじめてなぞることができるなんて、人間ってなんてよくできているんだろう。

私は新幹線に乗る前に焦って買った黒糖ドーナツがパンパンに入った紙袋を彼に渡す。何回も食べたことあるよと彼は笑う。これ、いつも僕が帰省するときに買ってくるやつじゃん。帰省する気分を私も味わいたかったの。
なにそれ、笑う彼をちょっと睨んで手を繋ぐ。私たちは終電で東京駅を後にして、帰路へと着く。私も、私の大事な人と故郷を歩いているのだと思いながら。

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