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残酷な偽物


写真は現実だと、思いますか?



大学で撮影の実習を履修していた時に「写真は現実を映さない」と先生方が仰っていたことを今になって思い出している。

「人間の目は良く出来すぎている。勝手に色も鮮やかに映し出されているから、写真を撮ると何か違う、と感じるかもしれない。」

(大方このような話だった気がする、。)

この意味でか、はたまた違う意味でだったかはわからないけれど、とにかく今わかることは

「写真は自分の見ている世界をそのまま映し出すわけではない」

ということだ。



現実だけれど現実じゃない。偽物じゃないけれど、本物でもない。

じゃあやっぱり、私たちは記憶を保管する術など持ち合わせていないんじゃないか。



先日久々にデジカメのバッテリーを充電して、少しだけ使った。小学生だったか中学生だったかの頃に父に誕生日プレゼントとして買ってもらった青いIXY100F。
我ながら、幼心でねだるプレゼントにしてはセンスあったなあ、と今になって思う。

iPhoneと繋いで撮った写真を見返していると、懐かしい写真が沢山詰まっていて。中学校の卒業式に撮った写真とか、愛犬がうちに来てすぐの頃に撮った写真とか。あとは、私の一番大切な存在の写真とか、ね


どれもこれも懐かしい写真、確かに愛おしく、それ以上にもう戻れないことを強く強く感じさせる。
その意味で、心の底から「写真は残酷だな」と思えてしまった。



この眼で見た景色をそのまま保管することもできない、まるで記憶の改竄みたいな存在の写真を、じゃあどうして遺しておくんでしょうか。

大学二回生の時から改めて触れてきた写真と、私は今一度向き合ってみたい、と少しだけ思っています。




日常の感情と結びつく日々の日記としての写真もあるけれど、そうじゃなくて

撮り続けること、大切な瞬間を遺そうとすること、それらにも意味なんて無くていいんでしょうか。

意味がなければ、意図がなければ、本当に大切な瞬間は、撮る間も与えずに過ぎ去っていく。




難しいね。どうして撮るのか、どうして被写体を続けているのか、どうして大切な場所だった実習の場が、今少しだけ苦しく思えたりするのか。


正解を探すことはしません。
浮遊のまま、いつか辿り着く場所で

出逢ってくれますか。



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