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思い出のマーニー


私は映画を見るタイミングというのを

とても大切にしている。 

本や音楽に関してもそうだけれど

映画などの映像作品は特に繊細になる。

視覚で入ってくるものに対して

感じるものが私はとても多くて

何に対しても深く没入してしまう。


だからいつも準備が必要で

今没入しても大丈夫な心か

感受性の扉が開いているか

そのタイミングを いつも見つめている。


読む前・観る前と

読んだ後・観た後では

少なからず何かが変わってしまう。


だからこそ

そこの境界線にいる時間を楽しんでいる。


買ったのに、観ない。読まない。 

あんなに楽しみにしてたのに、開けない。

嬉しそうにしているのに、触らない。

はたから見ると独特な間が私にはある。


何であけないの?見ないの?と言われれば 

決まって答えるのは

「今じゃないの。」


あけられてしまったり

今じゃないタイミングで

急に受け止めなくてはならなくなると 

「今じゃないの!!」とパニックになる。


だから私はじぃっと

今だ!というタイミングが来るのを

待っている。

それがいつなのかは、私も知らない。


これも自閉症スペクトラムの特性なのだと

知ったのは最近のこと。

それから前にも増して

この独特な間を楽しむようになった。


去年の4月頃

金曜ロードショーでやっていた

思い出のマーニーを録画していた。


その時からずっと観たいと思っていて

「思い出のマーニーみたいなぁ」 

「楽しみだなぁ」

と 何度も呟きながらその時を待っていた。


待つこと1年半。

ついにその時がきた。

 今だ!!


念願だった、思い出のマーニーを観た。


わたしの中の好きなジブリランキングが

大きく変動するほど上位になった。



冒頭のはじまりの言葉で 涙が溢れた。



こんな映画は初めて。 


自分でも驚いて

え、クライマックスにつれ

涙が出るものではないのか?!

こんなに開始1分から

号泣してて私大丈夫か?!

と心の中で戸惑い突っ込みながらも

涙が抑えられなかった。


次から次へと涙が溢れて止まらない。

私の中の なにかに言葉が響いてしまった。




この世には目に見えない魔法の輪がある。

輪には内側と外側があって

この人たちは内側の人間。

私は外側の人間。

でもそんなのどうでもいいの。

私は、私が嫌い。



" 私は、私が嫌い。" 


この言葉が持つ苦しみを

憎しみを破壊力を、私は知っている。


この想いが心に重りのように

のっているときの重さを、知っている。


世界がモノクロに見えて

すべてが殺伐としていた記憶が

輪からはみでてしまった

外側の人間だと殻に籠っていた記憶が

一瞬にして蘇って、泣いた。



私は、私が嫌いと言っている女の子を

見ることがとても辛い。

それがどんなに辛いか伝わってくるから。



主人公の杏奈に共感してしまった部分は

他にもあった。


喘息で発作がでるたびに

休みがちになる学校。

どうしたって生きてるだけで

人に労力をかけてしまうこと

心配をかけてしまうこと

お金がかかること。


みんなは楽しそうに走っていて

私は走ってはいけないと言われている。

〜してはいけないがリストのように

私には沢山あって

単純になんでなんだろうと思った。


病気というシールが私に貼り付いていて

それを見てみんなが口を揃えて言う 

 「可哀想に。」


私は全然可哀想なんかじゃなかったのに。

不思議で仕方なかった。


そんな体験から生まれた

申し訳ないという気持ち。

罪悪感や疎外感。


いつも私は常に誰かから

心配されていて

気をつかわれていた。

みんなの優しさに感謝して

受け止めていた反面

私に対する不安の眼差しと

私はこのまま呼吸が出来なくなって

死ぬんじゃないかという恐怖が

いつも私を渦巻いていた。

杏奈の視線や行動、言葉と

子どもの頃喘息だった自分が 重なった。


空気が吸えないからこそ感じた

微細な空気の違いに感動している様子も

面白いほどに全く同じだった。



あとは、絵を描くことが好きなことにも

共感出来ることがたくさんあった。


1人で絵を描いているときは

夢中だったり

真剣に向き合っていたり

空想を広げていたりするけれど



「絵、見せて」



この言葉で突然、他者の視点が

私の心に入り込んでくる。


その差し出される手への不安感。

 一歩後退りしてもっている絵を

ギュッと握りしめる。

この時の杏奈の気持ちが痛い程よくわかる。


その瞬間から絵は鑑賞物と変化するから。

良くも悪くも勝手にジャッジされてしまう。

興味本位で気楽に差し出された手ほど怖い。



私自身が描いてみている絵と

目の前の人が見る絵は

あまりにも世界が違うから。



次いで出てくる言葉たちは 

「少し…失敗しちゃって。」 

「まだ途中で…。」

 無意識に自分を守ろうとして

こんな言葉がこぼれることが

私にもたくさんあった。


表現したい絵を

真っ直ぐに表現する力はあったとしても

辛辣な批評までを受け止めるほど

強靭なメンタルを私は持ち合わせていなくて

素直に何度も傷付いていた。


でも、杏奈という女の子を

客観的に見つめることで

それでよかったんだと思えた。

なにで傷付くかも

傷付きやすいことも私らしさの一部だ。

それだけ一生懸命に

大切に想う絵を描いたのだ。



見終わってから もう一度見直した。

そうして 魔法の輪について

色々と考えを巡らせていた。



ひとつの輪の中には

いつまでたっても入れずに

ずっと外側の人間なのは

これからも変わらないだろうけど



大きな縁の内側で

私たちは 生きている。



それは例外なくみんな同じ。 

どんな境遇であれ、その中での体験は

 人それぞれだけれど

今、生きているのなら

生まれたという事実があるのなら

輪の内側に居るのかもしれないと思った。



マーニーが杏奈に向けて

何度も伝える言葉がある。

「また私を探してね。」 

「また私を見つけてね。」



私たちが生まれる理由は

つまるところこれだけなんじゃないかと

最近想うことが沢山あった。


明らかに、どうして出会えたんだろう

という目に見えない縁が確かにある。


家族も、夫婦も、友達も、仕事も

動物や植物との出会いも

この世界には数え切れないほど

たくさん居るのに

どうして私は私で

今ここに生きているんだろう

どうして出会ったんだろうと

いつも思わずにはいられない。



考えれば考えるほど

それは 探していたから

見つけたかったからが

先にある想いな気がしてならない。



でも、それを叶えるなんて

魔法としかいいようがない。



魔法の輪のなかを

生まれては死んで

死んでは生まれて

ぐるぐるとまわっている。



私が私であるという縁と

あなたと私を結ぶ縁。



その事実と向き合い知ることは

いつか、生きる力になる。



魔法の輪に触れたとき

私は私で良かったと

心から感じられるようになる。



この先に居る、まだ見ぬだれかのために

私は私に与えられた感覚を大切にしたい。

私を見つけてもらえるように。

 探してもらえるように。



思い出のマーニー 

大好きな映画になりました。

何度も何度も

折にふれ、見返していきたい。

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