【考察】写真コンテストの是非
東大新聞オンラインにて、写真コンテストが催されている記事を目にした。
記事の執筆者は写真について詳しくないことはさておき、募集要項に以下の条件が記載されていた。
写真は「画像」である。そして、「画像」を加工したものは審査対象外=「写真」であるとは認めない。
一般的な写真コンテストにおいて、当前のごとく記載されている内容ではあるが、これは自らが撮影し加工されていないものが「写真」であることを意味している。
さらにこうも続いている。
画像のトリミングを行ったとしても、それは「写真」である。
色調・濃度の微調整を行った場合も「写真」である。
これはすなわち、写真が一般的にデジタル化となって20年程度経過した現代においてもなお、「写真」の定義はアナログ(銀塩)時代からアップデートされていないことを意味する。
写真は画像であることが認知されている一方で、その画像は実世界に存在するものを「撮影」することによってのみ、写真と位置付けられている。
デジタル化されたことで、写真はかつての写真ではなくなった。そして現代ではポスト・インターネット時代のアーティストに代表されるように、写真は新たな「写真」へと発展を遂げている。
「現代写真論」の著書で知られる、シャーロット・コットン。本書は2010年の初版以来、時代の変化とともにその内容もまたアップデートされている。
そして、邦訳版はまだ出版されてはいないが、最新の書籍(2020年)にはポスト・インターネット時代における写真の内容が言及されている。
完璧なフレーミングであること、カメラを用いて撮影すること、および写真の主体が撮影者に帰属していること。こうしたステレオタイプな写真の定義が未だに世間一般的には蔓延しているため、写真の差別化を図るためには機材の違いや、構図の良し悪しといったことでしか判断されてはいないのが現状である。
先日、江ノ島電鉄の試運転時において、自転車に乗った地元の外国出身の男性が、撮り鉄に罵倒されたニュースは記憶に新しい。(当の本人は面白がっているが)
当方、電車に全く興味がないため、電車を意識的に撮ることはないが、電車写真の構図がだいたいどれも似たり寄ったりであるのは、ある鉄道会社の広告用のフレーミングマニュアルが流出し、それが撮り鉄のお手本となっている記事を目にしたことがある。
アマチュアカメラマンにとって、写真のお手本は写真雑誌(現在では軒並み休刊しているが。。)に掲載させているプロのカメラマンが撮影した写真である。
プロのカメラマンのような、練習すれば撮れるようになりそうな写真がアマチュアにとっては「良い写真」であり、そうしたお手本を目指して撮影する傾向が強い。カメラ雑誌に機材や設定が記載されているのは、カメラメーカーの訴求効果に加えて、アマチュアカメラマンたちに撮影の条件を提示することで、こうすればあなたも撮れるようになりますよ、ということを示している。
写真を始めてまもない頃であれば、模倣することで写真は上達していくであろう。しかし、ある時を境に目立った上達をしなくなる。
しかも、デジタル化された現代において、写真はシャッターを押せば「写ってしまう」のだ。さらに撮影者が主体的に撮影していると思っている行為は、カメラという装置に画像へと変換する命令を下しているにすぎず、写真を生成しているのはカメラ、もっというとカメラで実装されているアルゴリズムがその役割を担っている。
また「良い写真」と市場価値のある写真とはイコールではない。たとえヘタな写真であったとしても、高額な写真も存在する。アートにおける写真の価値と、世間一般に良いと思われている写真とでは、価値基準が根本的に異なっているのである。このあたりは以下の書籍が参考になるかもしれない。
多様化した写真の解釈において、未だにありきたりな「良い写真」だけを追い求めるだけでは非常に勿体ない。
日常のインフラと化した現代の写真において、多様な楽しみ方が存在するはずである。
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