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【考察】「写真」であることの必要性

臨時講義も終わり、修論も地道に書き進めている。

コーチングのなかで出てきた、「写真はデータだと展開しているのに、なぜ『写真』として表現しているのか」。
あーだこーだ述べているが、作品は作っているし、写真として表現しているのは、なぜなのか。

制作を行うことが当たり前すぎて、確かにこの点に関してはこれまで深掘りしてこなかったため、一度整理をしてみる。

写真を本格的に撮り始めたのは20歳頃。ときは2000年代前半で、フィルムvsデジタルの見出しがカメラ雑誌の定番であった時代。

私はフィルムカメラを選択した。フィルムはポジ。ネガに比べてダイナミックレンジが狭いため、正確な露出を設定しなければ途端に写りが悪くなる。システムであるはずなのに、思った通りに写らない。それは、経験という名のデータが蓄積されていないからであった。

おそらく、デジタルから始めていたらこうはならなかったような気がする。その場で確認し、違うと思えば何度でも撮り直しが効くのだから。すぐに確認することができないことはまさに「実験的」であったのだ。

写真の専門学校へ入った2010年前後、デジタルは一定のクオリティを担保できるまでになっていた。しかし、ここでも私はフィルムで撮影していた。デジタルなんて、と思っていたくらいだ。

撮っては自家現像、自宅暗室でプリントなど、最終的に写真となるプロセスが自らの手作業ですべてできることに魅力を感じていた。まさに写真を制作していた。

撮る→プリントするの行為が当然のことであった。写真を生成するのはシステマチックな作業であるはずなのに、ときに想像を逸脱するものが表象する。これは、自ら撮影しているにも関わらず、写真には写ってしまうからにほかならない。

そこから、写真として「表現」することに傾倒していったのは、写真の持つさまざまな意味や作用、役割、そしてなんらかの意味(ステートメント)を与えることで、単なる画像がみる人に異なる解釈を導いたり、独自の視点を提示することで新たな見方の補助的な役割を担ったり、といった自己と他者との対話に興味があった、のだと思う。しかも、写真というメディアの特性上、思いのすべてが正確には伝わらない。

万人がいいと思うものは皆無である。しかし、写真家たちの多くはどうだみろと言わんばかりの、押し付けがましい写真が多い印象を受けていた。写真展を開けば、仲間内が集まり、褒め合い合戦。それもそのはず、自己の内面を写真として提示したものに対して否定的な意見を述べることは、その人の人間性を否定することに直結する。

専門学校のとある先生がおっしゃっていた、「あなたという人間には興味があるのではない。あなたという人間が撮った写真に興味があるのだ。」

感覚的にはこれに近い。ただし、感傷的な写真、もっといえば内面的な表現には興味がない。そもそも写真には、感情は写らない。

私は世界をこうした見方でみている、ということを提示したいと思っている。もちろん、こうした見方が正解だとは思っていないし、広く受け入れられるとも思ってはいない。私が提示する問題意識に対して、わかる人だけがわかればいい。これは、ある種勝負のつけないゲームなのだ。

一番しっくりくるのは、表現とは「知的遊戯」である、ということなのかもしれない。別に表現をしなくとも死にはしない。しかし私にとっては、日常生活の中に生じる、意識的に対峙しなければ気にもされないようなことに対して注意のベクトルが働く。

当たり前を疑う。インターネットが日常に同化している現代において、調べることでさも理解したかのように錯覚するが、それは単にA=Bとなる解を最短距離で獲得しているにすぎない。考え、絞り出し、誰かに頼まれた訳でもないのに、ただひたすらにそうした行為を反復する。

ひとつのテーマを継続的に追求できないのは、こうした行為によるものである。

フランスの思想家パスカルの有名な言葉。「人間は考える葦である」(正確にはこうは述べてはいないが)。考えることこそが、人間が人間であるための尊厳を担保している。これは、思考ゲームの一種であり、人間が生きるために必ずしも必要な行為ではない。生きていくうえでの、人生を豊かにするためのスパイスのようなものである。物質的な豊かさではなく、心の豊かさとして。

もう一点挙げるとするのであれば、正解がないことについて考えることにある。平素の業務においては、いかに効率よく作業が行えるか、数値解析を行うなど、私は目的や解が明確なものを扱っている。一般社会の大半がこうした方向性にあるであろう。

その対極に位置するものが「表現」であり、一般解がないことについて思考を巡らすことができる。答えのないことに対して考えることができるのは、贅沢の極みである。そして、私の立ち位置はこの中間にあり、どちらの側にも行き来することが可能である。

人生において無駄なことはひとつもない。これは真でもあり偽でもある。どのようなことであったとしても、経験となると考えればすべてのものごとは無駄にはならない。その一方で、合理主義的な観点からすると、無駄なことは実に多い。

たとえば、マンガを読んだりゲームばかりしていないで、勉強しなさい!良い成績を得るという目的のためには、こうした娯楽に費やす時間は無駄の極みである。しかし、こうした本来の目的とは対極の、無駄な時間ほど実に楽しい。

人は産まれた瞬間からいずれ死ぬことが決まっている。人生という名の有限な時間において、無駄な事柄を排除していき、豊かな人生を送る。ミニマリズム的な生活は実につまらない。

人生とは、いかに無駄だと一般的に思われてる事象に時間を費やすことができるのか。「無駄の極み」こそが、人生をより豊かなものにする。

アート、および「表現」として制作を行うことは、合理主義的な考え方からすると実に無駄の極みである。しかし、この無駄なことからさまざまな疑問に対して思考を巡らせ、答えを見つけだそうという行為に興じることこそが、現代における人生の豊かさなのではなかろうか。表現を行うこと、それを端的に説明しようとするのであれば、それは「知的遊戯」なのだと思う。


写真であることの必然性とは何であろう。感覚的には、ティルマンスのいうように「写真で何ができるのか」が近いと思っている。

「写真とはなにか」。写真専門学校時代は、常にこのことについて考えていた。いわゆる「写真病」と呼ばれる症状で、写真にのめり込むと、常にこの問いでグルグルと彷徨い続けることとなる。しかも明確な一般解は存在しない。一般的にこの問いは「あなたにとって写真とはなにか」という回答が求められている。

専門学校時代には、明確な答えは導き出すことができなかった。それは、撮影した写真を編集し、提示するという基本的な行為が、私にはむいていなかったことにある。

写真は「撮るという行為によって作られる」と信じてやまなかった当時において、「撮る」という行為が絶対的であり、ただひたすらに撮りまくっていた。1年次には35mmフィルムで約300本。撮ったはいいが、そこになにかしらのテーマ性を当てはめようとしていた。全くもって意味不明な、テーマ規模が大きすぎるものに陥ったのはいうまでもない。

転機は子供が産まれたこと。それまで撮影に費やしていた時間は大きく削られ、子供が中心の生活となった。週末とあらばどこかに撮影しに行っていたのが、全く撮影しなくなった。それでも制作意欲は常に持ち続けていた。

元来、私にとって写真とは撮ることが絶対的なものであった。しかし、デジタル化され、ありとあらゆる画像的なものが「写真」と呼ばれている。そこにモヤモヤとしたものを常に抱えていた。

この頃から、現在のスタイルに傾倒していく。仕事で培ってきたプログラミングのノウハウを、制作に活かせはしないであろうか、と。

業務で行うのは主に数値解析や業務効率化に伴うプログラミング。それとは対照的に個人的に組むのは、画像処理やランダムなど。

これは、「写真とはなにか」という問いに対する根源的なものを明確にしていくことへと繋がっていく。アートの基本、当たり前を疑う。撮るものが写真と呼ばれているのであれば、撮らなくても写真と呼ばれるにはどうすればいいか。デジタル化され、デジタルデータから「写真」が作られている。

すなわち、「写真とはなにか」ではなく、「なにが写真となるのか」。ここからは思考ゲームの領域である。

撮影する→データになる→写真となる。すなわち、データができさえすれば、写真になる。そのデータの作成方法は撮影だけではなく、ほかのアプローチもあるのではないか。

アプローチの方法は何でもよい。「データ」になることが重要なのだから。ただし、アプローチ方法を探す、すなわち方法論の目的化では、やがて行き詰まることとなる。

そこで出てくるのが「知的遊戯」。幸い、社会の本質や仕組み、その成り立ちなど、実世界を構成している仕組みを考える習慣があったため、これらをデータ化し、可視化することによって「写真」となるのではないか。

さらに時代はIoT全盛期。ありとあらゆるものをデジタル化し、より簡単かつブラックボックスと化す現代において、ものごとの本質が見えなくなっている時代。思考に、時代が追いついてきた。

写真はデータ(アルゴリズム)である。これは、「写真とはなにか」を問うたときに対するひとつの解である。しかし、実際には逆で、データ(アルゴリズム)があれば、写真となる。これは「なにが写真となるのか」に対する解である。

すなわち、写真表現の拡張、なのではなく、写真概念の拡張を試みたことで、これまでの写真による表現さえも拡張してしまった、ということになるのではなかろうか。


また、アルゴリズムそのものに関していえば、なんらかの法則や方程式によって実装されたものである。新たな概念や論理式が誰かによって提唱されれば、それに基づいたアルゴリズムが誰かによって構築され、知識が共有される。

近年、AIによってアルゴリズムそのものを自動生成する動きが活発ではあるが、決して自動=創造ではない。既存のアルゴリズムのなかから最適(であろう)なものを選択して、構築(組み合わせる)するのを、「自動」(=機械的)で生成するシステムであるのだ。

その元となるアルゴリズムを構築したのは、どこかの誰かである人間の仕業である。

いまだ知り得てはいないだけの法則や方程式などは今後発見されるかもしれないし、ある日地球外生命体によって知恵を授かることがあるかもしれない。

現時点では、アルゴリズムの創始者は人間による所業であって、たとえ将来的に自動生成が現実的な技術となり得たとしても、創造することができるのは人間の特権である。

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この内容を教授に投げてみたところ、「知的遊戯」は古いというご指摘。。確かに今風ではない、特権階級社会における娯楽的なニュアンスが強いため、このあたりは要再考。

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