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私たちのつながり

父方の祖母の体調はだいぶ前から悪くて、時間がある時はなるべく介護のサポートをしている。
結婚してから久しぶりに祖母と3日間過ごした。
私のことは覚えていてくれているけれど少し髪が伸びたせいかそれとも筋トレの成果なのか、すっかり変わってしまったと、暫く私のことを介護士だと信じて疑わなかった。本当にまるちゃんなの?と疑われると、私自身別の誰かになってしまったような、よく分からない気持ちになったり…。でも時間が経つと孫だと理解したのか疑いの眼差しから久しぶりに会えた孫の顔を喜んで見る目になっていた。
祖母は風邪をひいていたが私が想像していたよりもずっと元気で安心した。もう熱はないようで部屋で一緒に団子を食べようと勧めてきた。ゆっくりしたいのは山々だがテレワークの合間に来ているので来るたびに団子を食べていては仕事にならない。仕事の合間だから、と毎回理由を説明しつつトイレは大丈夫か、寒くないか確認する。ご飯を食べるときは何となく、喉に詰まらせたりしたら大変だなと思って出来る限り見届ける。ゆっくりゆっくり食べる姿を見ていると生きているな、と感じる。体にゆっくり、でも確実に食べ物が届いていく、お茶が流れていく。少し時間が経てばトイレにも行きたくなる。人が生きるっていうのはこういうことなんだな、と当たり前のサイクルを噛み締める。毎食ずつ減っていく薬に、時間の経過を感じる。

結婚式に向けて、小さい時の写真を用意しておこうと思って、実家にあるアルバムを見た。小さい時の私は今よりもほっぺが赤くて大きい。むっとした口でカメラに目を向けていた。謎の大物感。何枚かドアップで写っている写真があって、母に尋ねると、きっとお兄ちゃんが撮った写真だと思うよ〜と言われた。5歳離れた兄にとって私はどんな妹だったんだろうな〜。おぼつかない足取りの私を支えるように隣に立つ兄の姿を見て温かい気持ちになる。ほとんどの写真は両親が交代で撮っているからなかなか家族4人揃っている写真がなかった。
まだ私が幼い頃の祖母の姿も残っていた。まだ背筋も伸びていて化粧気もあって真っ直ぐにカメラを見ていた。なんだか顔の形が私に似ていた。父に似ているということは祖母にも似ているということ。当たり前の繋がりを改めて再確認する。本当に写真は沢山あってどれを残せばいいのか分からなくなった。

祖母の家で昔の話をしていたら仏壇の下の引き出しを見て欲しいと言われた。そこには祖母や知り合いの写真が何枚か残っていた。ゆっくり写真を見ていくがいつ撮った何の写真なのか覚えていなくて、一緒に写っている人は誰だろう、と考え始めてしまった。全然覚えてないな〜と話しながら眺めていた。私が幼少期の写真を眺めている時と一緒だなと思った。

今の私たちの姿が写真に残っていつか私がおばあちゃんになって見返す時が来るのかな。その時私はどこでどんな風に昔を振り返るんだろう。孫に昔話をしながら写真を眺めているのだろうか。

3日間のサポートも終わり自宅に帰る頃、また会いに来るからねと祖母に声をかけた。大きなメガネ越しの祖母の目はまん丸で、いつもと変わりはないけれど何処となく寂しさを感じて私は勝手に涙ぐむ。あと何回こうして会えるかな。
私たちは明日につながっていく。ご飯を食べて眠りにつくと明日が来る。また懸命に生きる。そうしてずっと私たちはつながっていく。

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