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偏食ロンリネス

汚い窓で何を眺めようものか、なんてね。


私が2個目に書くお話は、「好き」の考え方がこんなにも人によって違うんだなって実感した話。


「好きなもの」って言われたら何が思い浮かぶ?
なんでもいい。好きな食べ物、好きな音楽ジャンル、好きな色…好きな人でも。
どんなものが好き?どんなものに惹かれる?っていうのが自分で解析すると面白いよ、自分がわかんない自分なんて肌がむず痒くない?

でも、それって案外難しい。自分ってどんな人?っていう解析。
自分なんてわかんないよ!なんなの!?ってわけもわからず辛くなってる時に限って、友達は友達でも、事情も何も知らない他人に
「らしくないよ」なんて言われるんだよね。
なんで私が私のこと分かってないのに貴方が私のこと知ってる口ぶりなのよ!って思っちゃうんだって、実はみんなそうらしい。理不尽に怒っちゃってるとはいえ、「誰よ貴方」っていう意識が芽生えたり「私を私以外が語らないでくれ」って思っちゃうんだって。わかってないのに、自分を守る言葉が出てくるんだ。


そんなわけで、好きなものについてのお話。


最近なんとなくで寂しい気持ちがあって、無茶苦茶に遡って考えてみた。それはどうやら好きな音楽の捉え方の違いを大きく感じることが原因だったみたい。たとえば「歌詞」か「リズム」どっちで聴いてるか、なんていう話があるよね。




…私がしたいのはそんな話じゃないんだな。
某天パの丸メガネの、オレンジがよく似合うお兄さんは「歌詞はあくまでメロディの翻訳だから、最初から歌詞は見ちゃあいけない」っていう考えを持っていて、それがしっくりきすぎたからあんまり考えてない。



じゃあ何の話よって思うよね。
実は、「それ聴いててそんな考え方するの?」っていう時と「あまりにもリスナーとして安易すぎないか」って思う時があるんだよね。説明しなきゃ怒られちゃう言い方を採択しました。ごめんなさい。


「それ聴いててそんな考え方する?」って言うのは、たとえば「俺だから聴かれるってよりは産み落としたこの曲自体を大事にされたいぜ!」っていうアーティストがいて(「いたとして」ではない。)、そのリスナーはどうやら「この人の曲だから好き」を持っている。新曲が出ると「この人の曲なら好きだろう」と言う気持ちを持って聴く。
…この人のそれは一体何が好きなの?って感じない?アーティストが好きなら想いを踏み躙ってるみたいで、曲が好きって言うならその感情にどことなく違う理由が混じってる。いっそのこと一種の雑念みたいで。


もう一つあるんだけど、最近「酒浮気タバコギャンブル」じゃん。Z世代流行りの曲。漠然とした煙がかかって靄の中で生きるような曲ばっかりじゃん。アンチではないよ。アンチではないけど、それを好きっていうあなたは何者?とは思うね。心の中で。
浮ついてる俺カッケ〜〜wwwっていうのも一定数いるよね。滲み出るダサさに気付くかしら。イケメンか本物しか許されない所業です。っと、それが無理なのか。
…逆も然りなんだけどね。物事全て慈しんでます!君を一生かけて守ります!みたいな曲聞いておきながらそんなことなかったりする。シンプルに人間性がこわい。もしそう言った曲の考え方が意識にあったとしても、あぁ私は「その枠」じゃなかったんすね、って絶望しそう。私も既にその絶望はしたんだけどさ。

もう一個の「あまりにも安易なリスナー」の話もする。
上の話の「その人が好きなのかその曲が好きなのか、その曲やアーティストに乗っかってる自分が好きなのか」が大半ではあるんだけど。
音楽に心を揺さぶられて救われたっていうのは良い話だね、良かったねで済むと思うんだけど、そこから勝手にそのアーティストに心をもたれて自分の意思や考え方とすれ違う曲が出ると「違う」「変わっちゃったね」って言うのこわくない?
勝手に、ってとこが肝。ただのリスナーなのよあたしたち。一般人。
勝手に好きになって勝手に解釈違いするの保護者面したいのかな、結構芸術的にお笑いだけど、そこんところどう?って思う。

もしくは空港の出待ちをして空港の方々への配慮不足(禁止だっけ)だったり、ゲリライベントに行って、もちろんアーティスト目当てで行ってるわけだから全く関係なくその場に居合わせた一般人への配慮がかけていたり。前者はアーティストが許可しているからって言う人もいるけど、それって「他のアーティストもファンサしてくれるかな」って言う意識あるいは「他のアーティストはやってくれなかった、なぁんだ」「優しくないな」っていう気持ちが生まれちゃうのよね。
まあここの話をまとめると、リスナーはアーティストの鏡であるってことは忘れないようにしようね。これだけは言いたかった。


結構文字書いてしまったけど、みんなも偏食になってしまうのは避けよう。
依存しないでって言いたいんじゃなくて、あくまでもいろんなものをかじって、一つを新興宗教の教祖みたいな扱いをするのはやめようねって言いたいんだ。もちろん合う合わないはあるよ。ただ、いろんなものを見てから心の中で教祖を作るのはまだ否定しない。

今回は「好きへの考え方が違う寂しさ」みたいな話になってしまったね。
定期的に心の目、つまりは自分のお部屋の窓を掃除して、クリーンな気持ちで好きなものを愛せると良いなって思ってるよ。もちろんお部屋も片付けなきゃね。
だからこそ最近、汚い窓で何を眺めようものか、なんて思ってるよ。

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