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少女と火災と儚さ

「儚い(はかない)」という言葉はどうもポジティブな文脈で用いられることが多いような気がする。

試しに、「儚い」の例文を調べてみると、儚い人生、儚い花、儚い瞳などと出てくる。

あるいは、「儚い」で画像検索してみると、花、夜景、そしてとりわけ少女の写真がたくさん出てくる。

いつでも崩れてしまいそうな美しさ。それが儚いの内包するポジティビティなのであろう。


さて、少女とは儚いのか。

青年期の女性が「儚い」として、成人を迎えた女性は「儚くない」のか。

または、青年期の女性のみが「儚く」、それ以外は「儚くない」のか。

儚さ、とは一体何か。




「儚さ」の定義

いつでも崩れてしまいそうな美しさ、という言葉の意味を今一度分解してみたい。



「いつでも」とは、(文字通り)いかなる時でも、四六時中、朝でも夜でも関係のないことである。

いつでも、と聞いてコンビニを思い浮かべるような人は、まだまだである。詰めが甘いのである。なぜなら、コンビニはいかなる時でも同じ程度を保っているわけではないからだ。

朝のコンビニ。夜のコンビニ。夏のコンビニ。冬のコンビニ。全てに我々は違う文脈を見出す。夜のコンビニでアイスを買うことはあっても、朝のコンビニでアイスを買うことはない。

ただそこに同じ程度であり続けるもの。それが「いつでも」が持つ意味だろう。


「崩れて」とは、他者からの影響で、あるいは自重によって、保っていた形をなくしてしまうことである。

ピサの斜塔は、緩い地盤によって傾いた。

14トンという自身の重みは、土を徐々に圧縮していった。己の存在が、己の存在を苦しめている。

または、振動への懸念から塔に設置されている鐘が現在鳴らされることはない。人間の与える運動によって保っている形が失われてしまうことがないようにしているのだ。


「しまい」とは、起こって欲しくないこと、望ましくないこと、そうするつもりがないことが起きてしまうことである。

我々は、それが自分にとって起こって欲しくないものだと主張しながら生きている。まるで、足並みを揃えなければいけない社会集団において、自我を維持するために小さな抵抗をしているようである。結婚披露パーティーの机下の攻防である。


「そうな」とは、可能性をいつでもちらつかせている状態のことである。

可能性は人類は編み出した発明の一つかもしれない。パーセンテージ。これほど便利で悪名高き言葉はない。

「2年以内の死亡確率は30%です。」

患者は己に残された時間を逆算して、やり残したことを探し始める。しかし、実際患者は分かったようで何も分かってはいない。”死ぬ”か”死なない”かの二択に3割など存在しないからだ。

可能性は、未来を測るために手渡された嘘の定規である。


「美しさ」とは、極めて主観的な快感である。

美しいと言われるものに人々の共通性はあっても、客観性などない。美しさをどこまで突き詰めても、本質など現れてはこない。「センターオブジアース」を夢見ても、そこにはドロドロとした高温の物質しかないのと同じである。

ただし、美しいという概念それ自体は、究極で根本的な客観性を持っている。




「少女」の危険性

少女が儚いと言う時、我々は次の点に注意しなければならない。



少女が、「いつでも崩れてしまいそう」なのは確かではない。

青年期の女性を庇護の対象として捉え、囲い守ることは、男性社会の自己顕示と密接に結びついてきた。あるいは女性を社会から隔離することは、ホモソーシャル、つまり男同士の絆という名のホモセクシュアリティを約束する手段であったのだ。

家父長制を支持する男性が女性を家庭に閉じ込めた時、そこにあった意味は、女性を社会から守るではなく、(男性)社会を女性から守ることに他ならなかった。

つまり、いつでも崩れてしまいそうなのは女性ではなく、男性中心社会の側であるのだ。


少女が「美しい」のもまた、そこに含まれるコンテキストを検証する必要がある。

美しさが主観的である欠点は、美しさの意味をどこまでも押し広げてしまうことだ。性を搾取する対象として少女を美しいと言う時、そこには圧倒的な抑圧関係が横たわる。そしてそれは時に、コミュニティの破壊という形でもって示される(戦時性暴力)。

少女の美しさが何を指さしているか、我々は注視しなければならない。




少女の「危険性」

火災を目の前で経験することはそうない。

爆発音。舞い上がる火の粉。刺すような遠赤外線。道路にまたがる消火ホース。消防士の叫び声。

目の前で焼けてなくなる建物を見つめる目はどこまでも空虚である。

皮膚を焼かれるかもしれない。煙を吸い込んで窒息するかもしれない。倒壊した建物の下敷きになるかもしれない。危険すぎる、あまりに危険すぎる。そして、儚い。


20世紀初頭の経済学部ヨーゼフ・シュンペーターは破壊的創造という言葉を用いた。それは、企業がイノベーションを繰り返すことによって経済を変動させる「代謝」のことである。


しかし、少女にとっても火災にとっても、その儚さは代謝などではない。代謝は「未来」へ志向する一連の流れであるが、少女にも火災にも未来など存在しない。あるのは、燃え(萌え)盛る「今」である。

若木が萌え、木造が燃えるように少女は危険性を孕んでいる。

学校制度に押し込まれる危険性。

トランジションの危険性。

クラスのオタクくんを蹴るような危険性。


その危険性を「儚さ」と呼びたい。



Photo by Rafelia Kurniawan on Unsplash


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