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おうち時間と「罪」―キェルケゴール『死に至る病』―

水は低きに流れ、人は易きに流れる。人間は自分に甘く、罪深い生き物である。元来人間の意志が弱いことを思い出したのは、在宅研修が始まってからのことだった。

4月から始まった社会人生活は、人様に見せられるようなものではなかった。基本的にいつも眠たくて、平日と休日の境目を見失ったまま月曜日が始まり、ささやかな内省が得られる頃には木曜日が終わりかけている。

会社から研修として振られた課題も思うように進まず、モチベーションが高い同期との差は広がる一方である。

我々が最も踏ん張らなければいけないのは、「自分と自分に近い性質を持つ集団に等しく参加する機会が与えられていて、なおかつ行われる努力の量が個人に委ねられている状況」なのだと思う。

「おうち時間」においては自分以外の誰かから監視される機会が減少するため、甘えというか、ある種の罪が発生しやすくなる(自分だけに起こる現象ではないと信じた断定です)。

自分の甘さと向き合う機会も、犯した罪の数だけ増えていくのではないだろうか。

連休中、大学時代に買って積みっぱなしにしていた『死に至る病』を読んだ。『死に至る病』は、キェルケゴールが著した哲学書である。

内容が結構難しく、日がな一日にらめっこという感じで読み終えるのにかなり時間を費やしてしまった。

「死に至る病」とは、「絶望」のこと。キェルケゴールは、個人に自覚があろうがなかろうが絶望は存在すると述べる。

これ自体は決してマズいことではない。むしろ、絶望の自覚がある人は無い人に比べて、自覚できているという点から「救済」に近づいているらしい。

頻出する救済という言葉からも推測できるが、彼の思想はキリスト教の宗教観に深く根差している。彼の父親は敬虔なクリスチャンで、キェルケゴール自身も少なからずその影響を受けたという。

述べられている考察も、「自己は、ひとたび絶望の危機を通じて自己自身を自覚的に神のうちに基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうる」など、救済へと至るまでに信仰が求められる。

逆に「自然人や異教徒は、その生活が罪と呼べないほど無精神的である」のように、無宗教の自分みたいな人間からすれば「これは困ったなあ」となる部分も多い(信仰がなければ絶望を解決できないので)。

個人的に面白かったのは、第2章の「罪の継続」。キェルケゴールは「罪は悔い改められなければ、各瞬間が新しい罪となる」と述べる。つまり、改善が見られなければそれはもう別の罪ですよということ。

どうやら「罪は認識のうちではなく、(まあ反省しなくてもいいやという)意志のうちに存する」らしい。

自分が研修中に犯してしまったサボりは罪であり、それを認識してから継続してしまった意志自体もまた罪である。気を付けなくてはならない。

無論、聖書における「罪」と日常生活における「罪」では、意味する内容が大きく異なる。しかし、一読者として、門外漢にも適用できる普遍的な教訓のひとつやふたつは欲しくなるものである。

そのためにとてつもなく稚拙な拡大解釈を行えば、つまり、この訓戒を日常の罪にも適用できるとすれば、「サボろうと思った時点で罪なので、そんなことを考えるのはよそう! 」といえるだろう。自明の理である。

人生はつらく、きびしい。今日も布団の中で17時のチャイムを聞く。

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