見出し画像

自分の店をつくった理由



10年後どうなっているのだろう

店を続けている?やめている?
ふつうの仕事をしているか
はたまた自給自足の生活をしているかもしれない

どうなっているかだけじゃなく
正直なところ
どうなりたいのかも分からない

わたしは人生の目標と言うものを
明確にもっている人間ではない

けれど
自分の心に従って生きてみようと
40歳をすぎ、どこに続くかも分からない道を歩きはじめてみた

その先に何があるかは分からないけれど
きっとそこは悪くない場所だと不思議と思えるのだ

わたしの仕事のこと


月に数回、雑貨店をやっている
あまりお客さんは来ないけど
少しずつ成長しているような
していないような

利益はでないけれど
格安の家賃とアルバイトの給料で
細々と続けることができている

楽しいときもあれば
何やってるんだろう?
と思うこともある
これといった大きな成果もなく
世界のだれからも忘れ去られているのでは?
と思うこともある

はじめは焦りや不安もあったが
徐々にそれにも慣れはじめ
今ではマイペースに続けていこうと
自分の心に従えることだけをベースに続けている

いつまで続けるんだろ?と
漠然とは思うものの
不思議とやめようとは全く思わない


なぜ店をはじめたのだろう


店をはじめた理由をたまに人に聞かれるが
パッと明確に説明することができない

いろんな理由が頭にはぽんぽんと浮かぶけれど
いちばんはおそらく
自分の居場所をつくりたかったからなのではないかと
ぼんやりと思っていた

社会には自分の居場所がないと
ずっと感じて生きてきた

どこに行っても身の置き場がなく
いつもどことなく居心地が悪い
自分が歓迎されていると感じる場所がない
(これはおそらく愛着の問題も関わっている)

だれかのためではなく自分のための場所
それがこの店なのかもしれない

本能的に安心できる場所を欲していて
いくら探しても見つからないから
自分でつくってしまったのかもしれない


店を続けるということ

けれど
だれかが必要だと思ってくれない限り
この場所は続けられない

じゃあどうする?

だれかのために
自分にできることを探すしかない

「だれかのために何かをして
だれかに必要とされる自分の居場所をつくる」

店をはじめてみたことにより
自然とだれかのニーズに目を向けるようになった
(結局はそれも自分のためではあるけれど)

自分がいいと思うだけのものを売るのは
ただの押しつけになってしまう

だれかが必要としているもの
だれかの日常が少しだけ良くなるもの
だれかの心を一瞬でも救えるものはなにか
考えるようになっていた

それが伝わったと感じた時
この仕事の楽しさが少し分かった気がする

これからわたしがやっていくであろうことは
そういう瞬間を少しずつ増やしていくことなのだろう

だけど、その先にあるものは?

おばあちゃんになるまでこの店を続ける?
仲間を増やして店を大きくする?

いくら考えてもなにかが違っていて
ずっとイメージできないのだ

考えれば考えるほど
私は本当に店をやりたいのだろうかという
根本的な問題にぶち当たる

そこで
自分の居場所をつくった理由の
もっと奥底にある気持ちを掘り起こしてみる


自分の居場所で結局何がしたいのか


自分のためにつくった場所で
わたしがやりたいこと
のぞんでいることとは一体なんなのか

自分でもよく分かっていなかった気持ちを
掘り起こしてみた

だれかに自分を分かってもらいたい
価値のある人間だと思いたい、思われたい
認められたい
自分はだめな人間じゃないと証明したい
人と繋がりたい
自分の強みを活かしたい
自分の力でだれかを喜ばせたい
自分の軸となるなにかがほしい
正しいことをしたい
同じ価値観の人に出会いたい
自然な姿でありたい
自分らしく生きていきたい

ひとつひとつ掘り起こし
自分の自己肯定感の低さと承認欲求が
まざまざと浮かび上がってきた

わたしには発達トラウマ
愛着障害のようなものがあるので
当然の結果かもしれない

そしてその中で
いちばん最後にでてきたことば
「自分らしく生きていきたい」
結局はこれが真理なのかもしれないと感じた

最終的に
とてもありきたりな言葉にたどり着いた


自分らしいとは「 苦手なことから離れること」かもしれない


得意なことを活かして
自分らしく生きていきたい

それってどういうこと?

さらに深掘りしてみると
自分がこうありたいという気持ちの中には
「苦手なことから離れたい」
という気持ちがいくつもあるということに気づく

社会では苦手なことをしなければ生きていけない
自分を殺してまわりに合わせ
できるだけ浮かないようにやりすごすことは
長年、何度もやろうとしてきたができなかった

いや、こころの奥底では
やるつもりがなかったのかもしれない

どうしたってわたしにはそんなことができないのだ
「心が完全に拒否をしている」
そんな感じだ

それがもともと自分のDNAに刻まれているものなのか
後天的に身についた意志なのかはよく分からない


苦手なコトやモノはなにかを考えてみた


理不尽な指示に従うこと
中身のない話をし続けること
長いものに巻かれること
長時間労働
サービス残業
自己犠牲
個性を活かせない仕組み
太陽の光を浴びることができないこと
ご機嫌取り
ご機嫌取りをする人を見ること
同調圧力
利益優先
筋の通っていないルール
暗黙のルール
協調性を重んじること
人と違う選択を受け入れてもらえないこと
右にならえ
社交辞令
上下関係
年功序列
スーツ
大量生産大量消費
食品添加物
農薬、除草剤
化学繊維
カラフルな看板、広告
過度な情報にさらされること
統計
明るすぎる照明

まだまだでてきそう‥

好きなことよりも
苦手なこと、嫌いなものの多いことに
自分で書いていて驚く

私が心から望んでいるのは
これらのことから逃げることなのかもしれない
逃げないと自分らしさが見えてこない、とも言えそうだ

これらのことから逃げ
その上で社会と繋がり
必要とされる人間でありたい

それが私が心から望んでいることなのかもしれない


心の声を何より優先する


嫌なことからは逃げて
だけど社会とも繋がりたいし
だれかの役に立ちたい

そんな考えはわがままで贅沢
現実から逃げているだけ、都合のいいはなしだ

そんな声がどこかから聞こえてくる

一体それは誰が言っているのだろうか

それは心の中に作り出された「常識」という呪いの声

「世間」というふんわりした、けれども強力な力をもったものの声

結局大半の人は
こういった自分の本当の心の声ではなく
他人や世間のものさしを優先してしまっている

先進国である日本人の幸福度が低いのは
異常なまでにも「世間」の目を気にして
みんなと同じであることで安心するという風潮
それによって自分らしさが分からなくなってしまっている
ということが大きく影響しているように思えてならない

自分のこどもをみていると
その意識はすでに小学校でしっかりと、がっつりと
植え付けられはじめられていることが分かる

この国に生まれたからには
悲しいけれど今ある社会のシステムから
逃れることはとてもむずかしい

そして
大人になってもその意識を外せずにいると
自分の本能が求めるものと現実との違和感を感じつつも
それがなんなのかはっきりと分からないまま
自分の人生を生きれないままで一生が終わってしまう

そこから脱出するためには
心の声を何より優先することなのだと思う

「世間に合わせて自分の人生を生きない」のか
「世間からはみ出て自分の人生を生きる」のか

一生という大きな視点で見た時
どちらを選びたいかは考えるまでもない


しあわせは目の前にあるもの、それは分かっているけれど


ちいさな日常に
しあわせはゴロゴロと転がっているものだ

朝、目が覚めて生きていること
太陽の光を浴びること
家族がいて、一緒に食事をして
あたたかい布団で眠りにつけること

自分の店をどうしていきたいのか結局答えはでてないけれど
生きるって、その繰り返しで本当はいいのかもしれない

目の前のしあわせに気づいて
そのしあわせに心から感謝しながら生きる

ただ、それが大切だということは分かっていても
不快だと感じるものがあまりに多くて
しあわせを感じとるセンサーが働かないのだ

頭で分かっていても心が動かない

だから
そのセンサーをしっかりと使えるよう
不快なものを手放していこうと思う

自分の心が病むような
嫌なことからとことん逃げて
好きなことを追ってみる

それがどこまで通用するのか
逃げた先には何があるのか

やらないことには何も分からないのだ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?