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友達が減った理由を考えてみた

友達が減った。
気のせいではなく、紛れもない事実である。
わたしは現在31歳なのだが、この年になると周囲の環境の変化が著しい。

結婚したり、はたまた離婚したり。事実婚をして、パートナーと仲良く過ごしたり。結婚したいと強く思う子もいれば、一人で生きていくと宣言する子もいる。子どもが小学校低学年になって育児ノイローゼが和らいだと話す子もいる。

さまざまな生き方があり、まさに十人十色だ。
20代半ばまでは、ここまで差はなかった気がする。しかし、30をすぎるとそれぞれの生き方が生活に色濃くあらわれるような感じがする。

わたしはというと、世間の結婚の重圧を強く感じる28歳頃に数年付き合った相手と結婚し、これまた数年すごした後、30歳で離婚した。子どもはいない。猫は3匹いる。
これまでに書いたnoteを読んでくれてる方ならわかるだろうが、わたしは11歳からうつを患い、いろいろな病気をしつつも、時々男性とデートしたり好きな人ができたり、そこそこたのしく生活している。わたしの生活の中心には猫がいて、ひたすらに愛でている。溺愛している。

何となく想像はつくと思うのだが、けっこう自由に生きている。希死念慮は消えることはないし、ストレス由来の病気にかかりがちだから手放しにハッピーとはいかないのだが、だれかから何かを強制されたりはしてないし、ストレスを与えつづける何かと生活を一緒にすることもない。
これまでの人生で排除できるストレス因子は、できるかぎり消してきた。ここまでの道のりは全く平坦ではなかったし、苦しみながら取捨選択をせざるを得ないという感じだったけれど、とりあえず今は結果オーライの生活をしている。
だからなのか、友達に対して不寛容になってしまった気がする。嫌なことはやめちまえマンになってしまった。

もともとの自分の性格は、人の話や悩みを聞いたりすることが好きだった。よく相談もされた。
だが、離婚してから何かがおかしい。我慢することができないのだ。もともと我慢強くない、堪え性のない性格ではあったものの、人の話を聞くことは人並みにはできていたはずだ。
しかし、今は人が話す悩みに対して、うんうんと頷くことが難しいのだ。話が長ければ長いほど、「嫌ならやめちゃえば?」と言いたくなってしまう。いや、たまに言ってる。出ちゃってる。

30代になると生活に密着した悩みが増える。人には人の事情があって、決断できない理由が数えきれないほどあることは理解している。話す目的が結論を出すことではなく、吐き出すことや共有に意味があるのだと理解している。それは十分すぎるほど理解しているのだが、自分の人生がこのままでは立ち行かないような悩みや、決断すべき問いを投げかけられると、なぜ答えをださないのだと思わずにはいられなくなってしまった。

人間ってそんな簡単な生きものじゃない。本当にそう。
しかし、離婚という一大決心をしてしまったわたしは、どこかで決断しないと人生はどうにもならないことを知ってしまった。相手が求めている言葉を言ってあげることができない。今のわたしから出る言葉は、どれも適切ではない。
友達の期待に応えられないと実感しながら、延々につづく愚痴にはもう付き合いきれないと思ってしまっている。


だから、会いたいと思う友達がどんどん減っていく。ゆえに友達が減っていく。

昔から友達が多いほうではなかったけれど、それでも両の手からはみ出るくらいにはいた気がする。それが今や……である。
少数精鋭と割り切って、あの頃と変わらない話をできる友達を大事にしていこう、そんなことを思いながら、少しだけまだ切ない気持ちでいる。



嫌なことなんて、できることなら何もしたくないし、本当はずっと猫といたい。生きるのは難しい。

おしまい


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