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言葉という大海原を泳いでいく

言葉を覚えることが好きな子どもだった。
幼稚園生くらいの頃は話せる言葉が少ないから自分の抱えている胸のもやもやが言語化できなくて、口をぎゅっと閉じていた。だから、幼稚園であった嫌なことや苦しいことをあまり親に伝えられていなかった気がする。今でもその当時、幼稚園で人からされた嫌なことを覚えている。何であんなことを言われなければならなかったのか、今でも嫌な気持ちになる。言葉にできなかった思いは消化されないまま、わたしの心の澱になっている。

小学生にあがる頃になると、言葉の世界は急速に広がりを見せる。初めて受けた国語の授業の胸のときめきを覚えている。目まぐるしいくらいにわたしの世界に言葉が飛び込んでくる。まるでまっさらな土地に、一つひとつ植樹されていくようなそんな感覚。

自分の使える言葉が増えていくことがうれしくてしょうがなかった。新しい言葉を手に入れると必ず披露した。家族と話す時には絶対に新しい言葉を使った。
言葉は知るだけじゃ意味がない。適切な使いどころを理解して初めて、真価を発揮する。言葉を正しく使うこと、それに注意して、言葉を取り扱おうと思った。
だから親に頻繁に言葉の意味を聞いて、どういう時に使う言葉なのかを確認した。言葉をちゃんと使うことができている確信をもつと、わたしは誇らしい気持ちになった。
言葉が増えると、自分のもやもやを少しずつ消化できるようになる。これまで伝えられなかった思いが言葉になって、輪郭をもつようになる。言葉によって、実体のなかった思いが形になりはじめる。


親やかかわる全ての大人に言葉の意味を聞いてまわった。
「それってどういう意味?」「どういう時に使うの?」
自分の納得がいくまで質問攻めをした。幸福なことに子どもの執拗な質問に対して、根気よく付き合ってくれる大人しかいなかったから、満足のいくまで理解を深めることができた。
大人はわたしのする質問にたびたび、「なんて言ったらいいかな」と一度考え、一呼吸置いてから例えを混ぜつつ言葉について丁寧に教えてくれた。わたしはそれが大好きだった。自分より知識が上でないと、「なんて言ったらいいかな」は言えない。当時7歳のわたしは“「なんて言ったらいいかな」ってなんてカッコいいんだ……!!”と思った。少し困った表情をして、いつかその言葉を使って言葉について教えたい、説明をしたいと思った。
だからもう何年かして、同い年の子や年下の子に言葉の意味をたずねられるとわたしは必ず言った。「なんて言ったらいいかな」と。少し困った表情をして。そんな困ってなくても枕詞のようにこの言葉をつけた。カッコいいと思っていたから。我ながらこの背伸びはかわいいなと思ってしまう。


小学校高学年になると、ほとんど大人と変わらないくらいに言葉を知っている子どもになっていた。
母親から暇な時は広辞苑やポケット版の国語辞書を読むといいと言われていたから、とにかくずっと国語辞典や国語辞書を読んでいた。辞典や辞書によって説明や表現が違うのが面白いと思っていた。広辞苑は別として、母親からとにかく辞書は三省堂、そう刷り込まれていたから、今も辞書は三省堂に対する信頼が厚い。
そこで発見した言葉は全てノートに書いた。いつか難しい言葉の数々を、使いこなせる人になりたいと思いながら。


膨大な量の語彙が増えていくという経験は、子ども時代にしかできないことだと思う。子どもの頃は、わからないことや説明ができないことばかりで怖くて不安でしょうがなかったが、この経験だけは心からうれしくて楽しい思い出だ。
言葉は生きていくうえで何よりも大事なものだ。語彙を増やすと世界が広がる。
あの頃の言葉が増えるよろこび、胸のときめきを一生覚えていたいと思う。言葉という大海原にワクワクした日を忘れない。


*おまけ
小学校高学年〜中学生までずっと読んでいたポケット版の辞書。背表紙は消えてなくなるほどボロボロ。


2024年2月23日22:51up
2024年3月8日00:30再up
マガジンの整理をしていたら誤って記事ごと削除してしまったので再up。復元ボタンがほしい。
スキくれた方、ありがとうございました。


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