見出し画像

短編小説 『凡百の道』

 人には人の、私には私の、家には家の──。
 アルバムだけじゃ分からない軌跡があって、写真の表には視えない背景が詰まっている。

 久々に帰省した二十代の半ば。息の詰まるような日々から解放されたかった私は、祖母の部屋に置いてあるそれをぺらぺらと捲っていた。生まれる前はこうだったんだ、これは懐かしいなあ程度で目的は特になかった。我が一般家庭の歴史は事業を営んでいたからといって紆余曲折あるわけでもなく、かといって興味に欠けるわけでもない。
 祖母と肩を並べる亡き祖父に「若い頃の二人、きれいじゃん。お似合いだね」そう煽てると彼女は嬉しそうに「そうかいねえ」と満更でもない返しをした。こう言えば喜ぶだろうと知っていた。いつだって女性は褒められたら嬉しいもの。女性はそういうものだ、と。四半世紀ほどしか生きていない小娘が思ったところであまり説得力はないのだけれど。

 一枚の白黒写真についてこちらから話を振れば、祖母は饒舌になっていく。姑との確執に呑兵衛な祖父の夜遊び。

「あの頃は大変でねえ、もうがむしゃらになって働いたもんだよ」

 よくある、昔を美化する苦労話なのだと思った。
 祖母は七人姉弟の長女であり、かの大戦を経てから祖父の家へ嫁ぎ、その事業を手伝ったと言う。確かに、それらの苦労なしではうちの家族史は語れない。生き証人からは弟妹を守り抜いた防空壕の話も何遍も聞いた。そしてどんな時も前向きに立派で、底知れぬ優しさを以て幼き私を包んでくれた。きっとこれまでも弱音を吐かない生き方をしてきたのだと言葉の節々で感じていた。

「それでもあんたのじいさんは良い男だった」

 彼女の惚気話を聞かされ、アルバムは閉じられるはずだった。
 私はほんとうに、お気楽街道を何も知らずに歩んできたのだと今になって思う。

「ねえばあば、お母さんって何歳の時に結婚したんだっけ?」

 私にとってはただの何気ない質問だった。

「どっちの? 最初のほう?」
「えっ」

 母は祖母の長女。婿養子の父は私が十五の年に病死し、家の中でその話題はあまり触れないのが暗黙の了解となっていた。自らも敢えて「母と父」を並べないよう気をつけていた。

 ──最初のほうって、なに。つまり、それって。

「……お母さん、別の人と結婚してたってこと?」
「ああ、すぐに別れたけどねえ」

 知らなかった。
 母には母の、歩んできた軌跡があった。
 別に、彼女が過去にどういった人間関係を紡ごうが解こうが、成人を超えた私には正直関係ない。いや、成人を超えなくとも関係ない。家族とは言え、結局は一個人なのだから言いたくないことだってある。私にだってある。これまで隠していた、もしくは話す機会がなかったのであればそれを咎めることもしない。けれど。温かな思い出話のはずなのに、寂寥を感じずにはいられなかった。
 ──これって私が知っていたらまずいのでは。

「あのね、ばあば。私、その話お母さんから聞いてないから知らないふりするね。だからばあばも私に言ったことは忘れてほしいな」

 祖母はあからさまに狼狽えていた。しまった、という顔をしてから申し訳なさげに「そうだったのかい」かくん、と首を垂らす。これは謝罪の意でそうしたのではない。首が疲れるから、とよく会話の途中でかくんかくんと頭を垂らしているのを常日頃から見ている。

「あーほら、お母さんって恋愛とか馴れ初めとかも私には話さないからさ、恥ずかしいんだよ」

 孫からのできる限りのフォローだった。

「あれはあたしがね、悪いんだよ」
「どうして。そんなことないよ」
「嫌々見合いさせられて、しょうがなく一緒になって堪らなかったって、あのおっかさんが言うもんだからそうなんだよ」

 初めて祖母から紡がれた後ろ向きな言葉。
 祖母には祖母の、心残りがあった。
 八十余年という長い人生を経てもなお、悔やんでいる声が私には辛かった。
 そんな人にかけるべき適切な言葉が、私には見つけられるはずもなくて。それでも何か言わなければと、焦燥する翳りの中で私は口を開いた。

「その時はお母さんが結婚するって決断したんだから、お母さんが決めたことであって、何もばあばが気にすることないじゃない」

 ほんとうはもっと違う別の、母も祖母もどちらも悪くない意を伝えたかったのに、結局母の責任だと捲し立てるような言い方になってしまった。そんなことを言った母も母だと憤慨しそうにもなったが、彼女の立場になったら同じように口走ってしまうのかもしれない。感情任せに言い放った、たったの一言が何十年も相手の足枷となっていることも知らずに。しかし、うまく呑み込みきれない事実を反芻しながら双方の想いを汲みとるのは、私には難しすぎた。

「うんまあ、そうなんだけどねえ、」

 やはり、私の励ましでは祖母の長年連れ添ったわだかまりを溶かせそうになかった。軽く気が動転していて、そのあとは何を言ったか、あまり覚えてはいない。たしか暗黙の了解を破り、その後の父との出逢いについて口にしていたように思う。私はどうにかして、祖母の歩んだ道に亡き父の印象を残したかったのかもしれない。母がどこの誰と結婚していようが私の父はたったの一人なのだ。今はもう居ないけれど。
 ──ああ、とんでもない話を聞いてしまったなあ。

 あれから数年、私は結婚した。
 こうして自分が家庭を持つことによって、あの頃を振り返ることが増えるようになった。今になって思うことはたくさんある。結婚に踏み切る勇気と迷い、勢いに喜び。けれど母の責任転嫁にはいつまでも賛同できなかった。
 ただ、もしもあの時の祖母に、別の言葉をかけられたなら。今の私なら迷いなくこう言うだろう。

「でもね、その結婚がなかったら私はお父さんと出逢えてないよ。それがあったから、お母さんはお父さんと出逢えたんだよ。ばあばやお母さんがその過去をどう思っていても、私は感謝してるんだよ」

 父には父の、軌跡があった。
 彼は五十三で終えた生涯だったけれど、私が二十歳になるまで生きられないと宣告された人生だったけれど、生きていた証はいつまでも私の心に焼きついている。寡黙な父は、倒れるその日まで家族のために働き続けた。最期は長年勤めた会社から転職する矢先の面接室だった。
 父だって母に出逢えて良かったはずだ。そもそも彼は彼女の婚姻歴を知っていたのだろうか。分からない。二人の馴れ初めもよく知らないし、思春期だった私は、無愛想でつっけんどんな態度ばかりであった。今となってはもう父の声すら分からない時があるが、憶えていることもまだある。穏やかな父から私は一度も叱られたことはなかった。それが躾としてどうであれ、深く愛されていた何よりの証拠だと思っている。だから娘に対しても、巡り逢えて良かった、と思っていたに違いない。そう思いたい。
 ──令和二年四月十六日。今年は花を手向けられなかったけれど、私はあなたを想わなかった日はないよ。

 皆が僅かな後悔を伴って経てきた道。時に曲がりくねったり、真っ直ぐだったり。街灯がちかちかと明暗繰り返す中、在るかも分からない道しるべを乞いながら転ぶこともあった。今はまだ途中だけれどきっとその先に、それぞれの形をした幸福が続いているのだと私は思う。

 これらは平凡であって、脚光を浴びるような特別なものではない。けれどその中で喜び思い遣り、時に傷ついて涙する道は誰とも等しいと信じている。どんなに不平等で不条理を嘆いても、七転び八起き。私はたくさん泣いたあとにはたくさん笑っていられるような心持ちで、これからを過ごしていきたい。


Fin.

短編私小説風 供養

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?