ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(2/n)
以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第一部に対応するAprès Freud.の部分の翻訳です。残りの部分も順次翻訳していこうと思います。気長にお待ちください。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。
原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.541~p.547に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました
B.Finkの英訳
ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II
日本語訳(佐々木訳)
1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。
2のドイツ語訳に関しては Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。
基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。
また参考文献として以下を参照しました。
ある神経病者の回想録(ダニエル・パウルシュレーバー)1990年、筑摩書房
Memoirs of my nervous illness, by Schreber, Daniel Paul, 1842-1911; Macalpine, Ida; Hunter, R. A. (Richard A.)
またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)
二つ目のシュレーバー回想録の英訳版は以下のページで閲覧できます。ただしネットで閲覧できるものは1988年の改版(?)と思われるのでラカンが本論文を執筆した時のバージョンではありません。
Memoirs of my nervous illness : Schreber, Daniel Paul, 1842-1911 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
注意事項
・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います
以下、本文
2.フロイト以後
フロイトは我々に何をもたらしたのか?我々は以下のように主張することで問題に入った。即ち、精神病の問題系に関して、フロイトがもたらしたこの寄与は堕落に行きついたのだと[=後戻りしていると]。
以下のことは全てを以下の基礎的なシェーマに帰着するような認識を引き合いに出すような、要因の過度な単純化において直ちに顕著になることである。即ち、如何にして内的なものが外的なものへと移行されるのだろうか?[というシェーマである。]主体は実際には、ここで不透明なエスをいくら含みこんでも無駄である。[というのも、]主体はしかしながら自我として、―つまり精神分析的方向づけ(l'orientation psychanalytique)おいて全く明示的に示されるように、強靭な認識すること(percipens)として、―精神病の誘因において引き合いに出されるからである。この認識すること(percipiens)は総体的な力能を、やはり変化しない自身の相関物―つまり現実―に対して有する。この力能のモデルは日常経験、つまり感情的投影の経験へとアクセス可能なデータから取り出される。
提示された諸理論は、これらの理論において投影のこのメカニズムを用いる様式が全く無批判であるために、自らを引き立たせている[=特筆に値する]。万事がこれらの理論に対して反論するが、しかしながら何もこれらの理論に対して役立たない。少なくとも臨床的なエビデンス全体に関して、情動的投射と、この情動的投射のいわゆる妄想的諸効果の間に、共通点は何もないのである。例えば、不実者の嫉妬(la jalousie de l'infidèle)とアルコール中毒者の嫉妬の間に共通するものは何もない。
シュレーバー議長の症例の解釈についてのフロイトによる試論を次々となされる同じような話の繰り返しへと単純化するならば、この試論は正しく読まれない。フロイトはこの試論において、文法的演繹という形式を精神病における他者との関係の分岐点を表現するために用いている。つまり命題:「私は彼を愛する」を否定するための異なる方法[をフロイトは用いているのである。]「私は彼を愛する」によって、結果としてこの否定的判断は二段階の時において構成される。第一の時は動詞の意義の反転:「私は彼を憎む」、あるいは行為者の性または対象の性の反転である:「それは私のことではありません、それは彼女のことです」、あるいは「それは彼の事ではありません、それは彼女の事です」(訳注1)―第二の時は主体の反転である:「彼が私を憎む」「彼が愛しているのは彼女です」「私が愛しているのは彼女です」―この演繹において形式的に含意される論理的諸問題を誰も気に留めないのである。
それに加えて、フロイトはこのテキストにおいて投射のメカニズムを問題を説明するのに不十分であるとして表現豊かに退けた。この際に、[フロイトが]非常に長く、詳細かつ巧みな、抑圧についての詳述に立ち入ることによって、しかしながら[投射のメカニズムは]我々の問題に到達するための基礎づけを提供している。この基礎づけは、精神分析の工事現場で舞い上がった粉塵を越えて、手がつけれていない輪郭をくっきりと描き続けるとのみ言える。
フロイトはその後『ナルシシズムの導入に向けて』をもたらした。この『ナルシシズムの導入に向けて』は全く同じ用途[=つまりナルシシズムの導入]のために用いられ、そして観察すること(persipiens)を通じたリビドーの揚水と排水―理論の段階に応じて吸い上げたり、押し返したりすること―にも用いられたのである。こうしてこのリビドーの揚水と排水は空論的現実を膨らませたり、しぼませたりできるのである。
フロイトは無意識によって決定される、新たな主観的[心的]経済において他者に基づいて自我が自身を構成する方法についての最初の理論を与えた。:これ[=フロイトの最初の理論]に対して人々は、確固とした古き良き認識すること(percipiens)と総合機能を自我のうちに再発見したことに対する高い評価によって反応した。
そこ[=フロイトの最初の理論]から精神病についての現実喪失という概念を最終的に昇格させる[=導入する、前面に押し出す]以外の他の利益を引き出せなかったとして、どうして驚かれようか、[いや驚かない]。
それだけではない。1924年にフロイトは鋭い論文を書いた。:『神経症及び精神病に置ける現実喪失』(全集18p.311)この論文においてフロイトは注意を以下のことにそそぐ。つまり現実喪失が問題なのではない、そうではなくて現実にとって変わるもの(訳注2)の原因が問題なのである。[これは]耳が聞こえない人への話である、なぜなら問題は解決されているからだ。アクセサリーの店は室内にあって、人々は欲求のままに[=必要に応じて]それらのアクセサリーを外へと持ち出すのである。
実際、これはカタン氏でさえ彼が非常に注意深くシュレーバーに置ける精神病の進行過程を繰り返し検討した諸研究において満たしたシェーマである。この諸研究はタン氏の前精神病段階に行き渡った配慮に誘導されることによって[為された。]カタン氏がこの症例において、幻覚的な幻影が突然出現することを正当化するために本能的誘惑に対する防衛―この症例においてはマスターベーションと同性愛に対する防衛―を引き合いに出した時に、である。[幻覚的な幻影の突然の出現は、]観察すること(percepiens)の操作によって性向と現実の刺激の間に引かれたカーテンである。(訳注3)
もし、我々がこの単純さが精神病における文学的創作の問題にとって十分であると評価していたなら、 しばらくの間、この単純さは何と我々の負担を軽くしてくれることだろう!
現実において性向の帰結が、それら[=性向と現実]の対の退行を保証する時、どの問題が精神分析的ディスクールにとっての障害で依然としてあり続けるのか?構造における退行、歴史における退行、発達における退行を区別することなしに、人々が退行について語ることを甘んじて受け入れている知性を、何が倦ませることができるのだろうか?([こうした退行は、]命名の機会において局所論的退行、時間的退行または発生的(génétique)(訳注4)退行としてフロイトによって区別された。)
我々はここで長々と混乱を綿密に調査することを諦める。混乱を綿密に調査することは、我々が養成した人々にとっては陳腐なことであり、他の人々にとっては興味のないことである。我々は共通の熟考に対して違和感を呈示するだけにとどめる。この違和感は、発達と環境の間の円環の中を回ることに身を捧げる思索の見地からすれば、しかしながらフロイトの体系の枠組みを成す特徴についての唯一の言及が引き起こす違和感である。[その特徴とは]つまりフロイトによって、両性におけるファルスの想像的機能の同等性が維持されたこと([これは]長い間、«生物学的»な偽の窓の愛好家―つまり自然主義者達―の嘆きの種[である])、[フロイトによって]去勢コンプレクスが規範を確立し、主体が自分自身の性を受諾する段階として発見されたこと、個人史の全体のうちでエディプスコンプレクスを構成的存在性( la présence constituante )によって父殺しの神話が必要になること[要するにエディプスコンプレクスは個人史の中で決定的な役割を果たし、まさにそのことによって父殺しの神話がなくてはならないものになるということ]、そして最後にはなるが、、、(last but not… )常にただ一つのものとして再発見される対象の反復的な押し付け(訳注5)それ自身によって分裂の効果が愛情生活のうちにもたらされること(訳注6)、である。そのうえフロイトにおける欲動の概念の本質的に反逆的な特徴が思い起こされないだろうか?[この本質的に反逆的な特徴とは、]性向―つまり欲動の方向―と欲動の対象との原則的分離、そして欲動の原初的«倒錯»(訳注7)だけではなく、概念体系のうちへの欲動の包含である。この概念体系はフロイトが、『幼児の性理論について』というタイトルの下で、彼の最初期の学説[の時期から]位置づけていたものである。
誰も、ずっと以前から教育的な自然主義のうちで、以上の全てから離れているということは明らかではないだろうか?この教育的な自然主義はもはや、満足感の概念とその対立物以外の原則を持っていない。[満足感の対立物の概念は]フラストレーションである。フラストレーションについてフロイトは述べていない。
疑いなく、フロイトによって明らかにされた諸構造は、もっともらしさのうちにおいてだけでなく、駆け引きのうちにおいても、今日の精神分析がその流れを方向づけたと言い張っている不明瞭な動きを支え続けている。打ち捨てられた技法は«奇跡»さえも起こしえたであろう。もしこの技法の諸効果を社会的提案と心理学的迷信から成る曖昧さへと還元するような追加の体制順応主義がなかったならば。
厳格さへの要求は、絶対に物事の流れが何らかの立場によって、この共同体から外れたところに維持しているような人々にのみ現れるのはまさに驚くべき事である。例えば、アイダ・マカルピン夫人は我々が驚くような症例を我々に示した。[彼女の本を読めば、我々は]確固たる才覚に出会う。(訳注8)
同性愛的欲動の抑圧の要因のうちへと閉じこもり、そのうえ全く曖昧であるというものであるようなクリシェについての、マカルピン夫人の批判は見事なものである。そして彼女は存分にシュレーバーの症例についても、存分に同性愛的欲望の抑圧の原因について説明してみせる。いわゆるパラノイア性精神病の決め手となる同性愛はまさしく精神病の[進行]プロセスにおいて分節化された症状である。
シュレーバーにおいて精神病の進行過程の初期徴候が半覚醒時のシュレーバーの思念という側面の下で現れるよりもずっと以前から、このプロセス[=精神病の進行プロセス]は開始されていた。この思念は、その不安定性のうちに自我の[謂わば]断層撮影を示している。この思念の想像的機能は我々に対して十分にその形態のうちに示されている。:性交している女になることは素晴らしい事であろう。[ここはS3上p.100〜p.104の議論の深堀り?と思われる]
マカルピン夫人は、そこで正当な批判を展開するために、しかしながらついに以下のことを誤認するに至った。フロイトは同性愛の問いについて非常に重視したのだが、それは何よりも同性愛の問いは妄想における思念の重大さを決定づけることを示すためであった。しかしより本質的なことに、フロイトは同性愛の問いのうちに、他性の法を示したのである。この他性の法によって主体の変身が生じるのである。言い換えれば、この場所において[=他性の法において]妄想的«諸転移(transferts)»が続いて起こるのである[ここまでがマカルピン夫人が誤認、つまり無視したこと]。マカルピン夫人は、フロイトがこの同性愛の問いにおいてエディプスコンプレクスに依拠することに依然として固執した理屈に頼ることによってより良い仕事ができただろう。彼女はこの理由を受け入れていない。
この困難は彼女を我々の足元を確実に照らす諸発見へと導いたかもしれない。というのも依然として逆エディプス(訳注9)と呼ばれるものの機能については何も言われていないからだ。マカルピン夫人はこの困難に際してエディプスに全面的に頼るのを拒むことを選んだ。生殖の空想は両性の幼児において妊娠の空想という形態の下で観察されるものである。この生殖の空想によってエディプスを埋め合わせるために、そのうえ彼女は生殖の空想をヒポコンデリーの構造と関係があるとみなしたのである。
この空想は実際、本質的である。そして私はちょうどここで、私が男性におけるこの空想[=生殖の空想]を手に入れた第一の症例が何らかの仕方で私のキャリアの時代を画するものであったし、この症例はヒポコンデリー[の症例]でもヒステリー[の症例]でもなかったということに留意しよう。
現在となっては不思議(mirabile)な事だが、マカルピン夫人はこの空想を象徴的構造と関係づける必要性を敏感に感じ取っていた。しかし、エディプスコンプレクスの外にこの構造を見出すために、マカルピン夫人は民族学的な諸典拠を探し求めたのである。マカルピン夫人の著作において我々は民族学的な諸典拠の吸収[の具合を]うまく評価できない。問題となっているのは«太陽・巨石崇拝的»な主題である。英国の伝播主義学派のうちで最も卓越した信奉者たちのうちの一人がこの主題を支持したのである。我々はこうした諸認識の功績を知っている。しかし我々にとって、この諸認識は無性的な妊娠や«原始的»な認識といった、マカルピン夫人が与えようとした見解を少しも支持するものではない(原注2)。
マカルピン夫人の誤りは何よりも自らを裁いている(訳注13)。つまり、彼女は彼女が探し求めていたものと正反対の結果に行きついてしまっている。
マカルピン夫人は彼女が内心理的(intrapsychique)と規定したダイナミクスにおいて空想を孤立させた。これによって、彼女が転移の概念について明らかにした観点にしたがって、彼女は精神病患者の不確実性のうちに、精神病者自身の性別に関して、分析家が介入すべき敏感な点を見出すに至った。それはこの介入の幸運な諸効果を、潜在的な同性愛の認知へ向いた暗示の破滅的な効果と対比させることによって為されたのである。実際こうした破滅的な効果は神病患者において常に観察される。
しかし、患者自身の性に対するこの不確実性は、まさにヒステリーにおいて平凡な特徴である。マカルピン夫人は診断におけるこのヒステリーにおける平凡な特徴の諸侵害を暴いている。
つまりどんな想像的形成も特殊なものではない(原注3)。また、どんな想像的形成も、構造のうちでは決定されないし、また[病状の進行]過程のダイナミクスのうちでも決定されないのである。そしてこのことが、より上手くそれ[=構造と過程のダイナミクス]に到達しようとする希望のうちで、象徴的分節化を軽蔑しようとする際に、一方[=構造]も、他方[=過程のダイナミクス]も取り逃がす羽目になる理由である。この象徴的分節化はフロイトが無意識と同時に発見したものであり、また実際、無意識と不可分なものである。:この分節化の必要性をフロイトは、彼のエディプスコンプレクスへの方法論的な参照において、我々に示しているのである。
どうしてマカルピン夫人にこの誤認識という悪事の責を負わせられようか?というのも、解消されるべき間違いは精神分析において、常に増え続けているからだ。
このことが、一部の精神分析家たちが、神経症と精神病の間で確かに要求される最小の裂け目[=精神病と神経症の間の最小の差異]を定義するために、[精神病と神経症の間の差異を?]現実に対する自我の責務にゆだねてしまっている理由である。このことを我々は「精神病の問題を以前の状態(statu quo ante)のままにすること」と呼んでいる。
それにも関わらず、大変厳密に二つの領域[=精神病と神経症]の境界の架け橋として指し示されている点がある。
分析家たちはこの二つの領域から精神病における転移についての問いに関して最も並外れた状態を作り出した。この主体について言われたことをここに取りまとめることは思いやりを欠くだろう。「要するに、精神病が問題となってないような全ての症例において、精神分析家たちは精神病を治療できると断言する」(原注4)という言葉によってマカルピン夫人が精神分析のうちに今や広がっている特質によく合致した見解を要約した時、あるマカルピン夫人の知性に敬意を表す機会をそこに見出そう。
この点について、ミダス王は精神分析についての指示を制定した時、以下のように自身の考えを述べたのである。「精神分析は他者がいる主体によってのみ可能であるということは明らかである!」と。そしてミダス王は橋を往復し、この橋を空地であるとみなした。どうしてミダス王が別様な[判断をできた]だろうか?[いやできなかっただろう。]というのも、彼はそこに川があったということを知らなかったのである。
「他者」という語は、分析家の人々にとっては聞いたことのない語であり、人々にとっては葦たちの囁き以外の意味を持たなかったのである。
原注
(原注1):自身が迷子になったことを証明しようと強く望む者。それはマカルピン夫人と同様である。マカルピン夫人はそもそも扇情的(suggestive)な情熱(訳注10)の性質に拘った。その情熱は患者自身[=シュレーバー]によってあまりに説得的であると書かれている(S.39-IV)(訳注11)。フレヒジヒ教授は彼がシュレーバーに提案した睡眠療法が成功する可能性に関して、この情熱に身をゆだねたのである。マカルピン夫人は、我々が述べているように、長々と生殖の諸主題について解釈した。シュレーバーが抱えている障害に対して治療により期待される効果を指し示すために、to deliver(分娩させる、産む) という動詞[マカルピン夫人の本文ではdelivering]を用い、また同様にprolific(多産な)―これはマカルピン夫人が翻訳したものである―という形容詞を用いることによって、加えて問題となっている睡眠に対して用いられたドイツ語の単語:ausgiebig(豊富な)を非常に都合のいいように解釈することによって、マカルピン夫人はこの生殖の諸主題をこのディスクールによって[=フレヒジヒ教授の話によって]連想されたものだとみなしている(v. Memoirs..., Discussion, p. 396, 12行目 と 21行目を参照)(訳注12)
しかしto deliverという単語は、この語が何も翻訳していないという単純な理由からこの語が翻訳しているところのものに関して議論を引き起こすものではない。我々はドイツ語のテキストを前にして驚き目を擦ったのである。そこにおいて[=回想録のテキストにおいて]動詞は単純に著者によって、あるいは誤植によって[書き]忘れられている。そしてマカルピン夫人は、彼女の翻訳への努力のなかで、図らずも[書き忘れられた]動詞を我々に対して復元したのである。後に[この単語が]どれほど彼女の意向と合致したものであるかを認めるさいに彼女が感じたはずの幸福を、どうして至極当然のものと思わずにはいられようか!
(原注2):Macalpine, op. cit., p. 361 et pp. 379-380. 545
(原注3):我々はマカルピン夫人(v.Memoirs…,pp.391-392)に対して以下のように問う。数字の9が、この数字が9時間、9日、9カ月、9年のような多様な期間(durées)[=時間単位]に含まれる限りで、数字の9をその患者[=シュレーバー]の不安が先に言及した進行中の睡眠療法の開始を遅らせた時(訳注14)の時計の時刻において再発見されるがゆえに、またそのうえ患者[=シュレーバー]の個人的な回想の同一の期間[=睡眠療法云々の箇所,S.40~S.41のこと?]において幾度も見られる、4日と5日の間のためらいのうちに、[数字の9の]繰り返しを再発見するがゆえに(訳注15)、マカルピン夫人は我々に対して患者[=シュレーバー]の病歴の隅々にこの数字の9を溢れさせる。この数字の9は、上述のような部分―つまりマカルピン夫人によって生殖の空想として分離された想像的関係の象徴―を構成するものとして理解されるべきでなのか、否か?と。
この問いは皆の興味を引くものである。というのもこの問いは、フロイトが「狼男」において、ローマ数字のVの形象について用いたやり方と異なるものであるからだ。そのやり方とは、[狼男が]1歳半の時に[原]場面を知覚して以来、時計の上の針の先を保持している[=原場面を目撃した時刻を無意識化下で覚えている]とみなしたやり方である。この[時計の針の先の]ローマ数字のVの形象は蝶の翅の開閉運動、少女の開いた下肢のうち等々に再発見される(訳注16)。
(原注4):Memoirs of my nervous illnessの序文p.13~19を参照[該当する記述がわからなかった]
訳注
(訳注1):読みやすさを優先して原文と構造を大幅に変えた。直訳するのなら
第一の時、動詞の意義の反転:「私は彼を憎む」、または、行為者あるいは対象の性の反転:「それは私のことではありません」あるいは「それは彼のことではありません」「それは彼女ことです(あるいは立場を逆にして)」
(訳注2):「現実にとって変わるもの」とはフロイトの言葉では「空想世界」に該当すると思われる
(訳注3):セミネール三巻におけるカタンへの言及は邦訳版ではS3上p.101,p.170、下p.60,p.61,p.78,p.92において見られた。(ほかにもあるかも)
(訳注4):何故、ラカンがここでgénétique(発生的)という語を用いたのかよくわからない。夢判断の記述を参考にすると形式的退行が来た方が自然だと思われる。
(訳注5)
仏語原文は
l'effet de dédoublement porté dans la vie amoureuse par l'instance même répétitive de l'objet toujours à retrouver en tant qu'unique.
であり独訳は
der Spaltungseffekt, der ins Liebesleben eingeführt wird durch das wiederholte Drängen des Objekts, das, als einmaliges, immer neu zu finden ist.
となっている。
独訳では恐らくinstance(審級)をinsistance(執拗さ)の誤記だと捉えてDrängen(押し付けること)だと捉えているように思われる。(ただしこの場合でDrängenの訳は微妙な気もする)少なくともinstanceをドイツ語で直訳するならInstanzとするべき。Finkの訳ではinstanceとなっているものの、instanceでは意味がわからないため、ここでは独訳に従いinstanceではなくDrängen(押し付けること)で訳文を作成した。
(訳注6)
(訳注7)
フロイトは性以外の欲動の存在を認めているが、それらの欲動については倒錯ということをのべてはいない。(精神分析用語辞典,p.348を参照)
(訳注8):マカルピン夫人については、S3下のXXV,ファルスと大気現象を参照のこと
(訳注9):裏エディプスコンプレクスはnegativer Odipuskomlexだがこの箇所は独訳でumgekehrten Odipuskomplexとなっているため別物と判断した。文脈的にもそれが妥当と思われる
(訳注10):原文はinvigoration=強固にすること、であり独語はBestärkung=(決意などを)固めることであるが、英訳はenthusiasmである。意味がとりやすい英訳の訳語を採用した。
(訳注11)
(訳注12)ラカンによって引用された箇所を以下に抜粋しておく
(訳注13):Finkの英訳だと何故かここに対応する文はMacalpine's error is seen elsewhereとなっている。独訳でもDer Irrtum von Frau Macalpine lässt sich anders erklärenと若干ニュアンスが違った訳し方になっている。
(訳注14)
(訳注15):S.40(邦訳p.38)には「温水浴に一回入ったのに私はただちにベッドに運ばれたが、続く四、五日間、私はもはや全くベッドから離れることはなかった。」とあり、またS.41(邦訳p.41)には「精神病院に入院してから大体四日目か五日目の夜」とある。こうした「4、あるいは5」という記述を指して「ためらい」という言葉をラカンは用いていると思われる。そして4+5=9なのでこのような「4or5」という形式の記述は実質的に9を表しているとマカルピン夫人は考えている。以下の引用の5.の記述を参照されたい
(訳注16)
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