ジャック・ラカン『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』(エクリ所収)―私訳―(1/n)

始めに

以下はÉcritsに収められている論文『精神病のいかなる可能な治療にも先立つ問い(D'une question préliminaire a tout traitement possible de la psychose )』の第一部に対応するVers Freud.の部分の翻訳です。残りの部分も順次翻訳していこうと思います。気長にお待ちください。
訳者はフランス語初学者であり、誤訳等々が多く散見されると思われるがコメントやTwitter(@F1ydayChinat0wn)上で指摘・修正していただければありがたいです。

原文は1966年にSeuil社から出版されたÉcritsのp.531~p.541に基づきます。したがって、1970年と1971年に刊行されたÉcrits IとÉcrits IIについては参照していないため、注などが不完全であるかもしれません。
また翻訳に際して以下の三つの翻訳を参照しました

  1. B.Finkの英訳

  2. ドイツ語訳(旧訳)1986年にQuadriga社から出版されたSchriften II

  3. 日本語訳(佐々木訳)

1の英訳についてはwebサイト(users.clas.ufl.edu/burt/deconstructionandnewmediatheory/Lacanecrits.pdf)で閲覧可能です。

2のドイツ語訳に関しては ‎ Turia + Kant 社?から出版されている新訳のSchriften IとSchriften IIがありますが、入手できなかったため旧訳を参照しました。

基本的な文構造はFinkの英訳に従い、適宜独訳を参考にしました。結果として佐々木訳とはやや異なる箇所が多いです。

また参考文献として以下を参照しました。

  • 一般言語学(R.ヤーコブソン)1973年、みすず書房

  • ある神経病者の回想録(ダニエル・パウルシュレーバー)1990年、筑摩書房

またシュレーバー回想録の引用は上記の日本語訳に従っています。(一部エクリのフランス語訳との兼ね合いで変更した箇所はあります。)

注意事項

・ある程度読みやすさを重視しているので必ずしも原文の文構造に忠実ではないし、また一部の語は訳し落としたり、意訳したり、補ったりしてあります。
・(?)がついているのは訳が本当に怪しいと私が思っている箇所を指します。
・訳者が勝手に補った箇所・または短めの訳者コメントは[]をつけています。関係代名詞を切って訳した部分などは[]を明示していない場合があります
・訳が微妙な場合は元の語を(…)で示していますが、ラカン本人が記した(…)もそのまま(…)としています。混同は多分しないと思いますが一応注意してください。加えて、本来外国語は斜体にするのがマナーですがnoteだと斜体にする方法がわからないので直接書きます
・原注、訳注、長い訳者コメントは最後にまとめておきました。訳注は主に引用されている文献の被引用部を中心にした抜粋が多いです。
・原注の番号は降りなおしてあります
・段落の改行は原著に従います

以下、本文


フロイトの方へ

1精神病に適用されたフロイト主義の半世紀は自身の問題をまだ再考するにゆだねている。別の言い方をすれば、旧態依然の状態にある
 フロイト以前に、精神病の議論は理論的な基盤から離れてないと言うことができる。この理論的基礎は自身を心理学として与え、学派( l'École)に於ける、科学の長い形而上学的な消化と呼ぶものの《世俗化された》残滓ではない。(この大文字のÉ によって学府( l'École)に我々の崇敬を込める。)
 ところで、もしピュシス( la physis)に関する我々の科学が相変わらずのより純粋な数学化の中で、この厨房[=精神病についての議論?]をまさに悪臭から守るならば、―その悪臭はとても控えめなので、人間の置き換えが生じなかったのではないか否かをひとは正当にも自問することができる―反-ピュシス(l'antiphysis)(つまり、前述のピュシスを計測するのに適していると望まれる活き活きとした体系or身体器官(apprail viviant))については事情は同じではない。この反ピュシスのこげた油の匂いはいかなる疑いもなしに、先に述べた厨房のうちでの、脳みそを準備する古来からの実践を暴露する。(コメント1)
 そうして、抽象の理論であり、認識について説明するために必用なものは主体の能力についての抽象的な理論のうちに定着した。最もラディカルな感覚論的諸請求はもう主体性の効果に対して抽象の理論を機能させることができない。

2その問いはひとが在学中(sur les bancs de l'école)に(こちらは小文字のeだが)最終的に避けることを学ぶ問いである。:何故なら、たとえ認識すること(percipiens)の同一性のうちにある諸々の交替を認めたとしても、機能は認識されるもの(perceptum)の統一によって構成されるその機能[=認識することの機能]は議論されないからだ。したがって認識されるもの(perceptum)の構造の多様性は認識すること(percipiens)においてまさに領域(registre)の多様性の形態をとる。最終的な分析においては、それは諸感覚中枢(sensoriums)の多様性の形態をとるのである。もし認識すること(percipens)が現実の水準にあるのなら、権利上この多様性は常に克服できる物である。
 というのもこれは、狂気の存在を提起する問いに応える責任がある人々がこの問いとそれら[=percepiens,perceptum]との間に、あの学校の机(bancs de l'école)を介在させずにはいられなかったからだ。この機会において彼らはこの学校の机のうちに、そこに避難するのに好都合な障壁を見出したのである。
 実際には、我々は思い切って、あえて言うのなら、諸々の立場を十把ひとからげに扱う。それらの立場がそれ[=狂気?]に関して機械論的であろうと力動論的であろうと、狂気の起源が人体からであろうと、精神活動からであろうと、そして崩壊あるいは葛藤の構造であろうと、である。そう、全て[の立場]、それらがどれほど巧妙に現れたとしても、幻覚は対象がないような認識されるもの(perceptum)であるという明白な真理の名に依る限り、これらの立場は、認識すること(percipiens)の根拠を認識されるもの(perceptum)から望むだけで満足しており、だれもこの嘆願に際して、ある時機が飛び越えられてしまっているということに気づかないのである。それは認識されるもの(perceptum)それ自身が、一義的な意味を、認識すること(percipiens)に与えているのか否かを自問するという時機である。この時機において認識すること(percipiens)は認識されるもの(perceptum)を説明することが要請されている。
 我々が後に見るように、この幻覚を特定の感覚中枢(sensoriu)が原因だとすることも、あるいは、患者がその幻覚に統一性を与える限り、この幻覚[の要因を]とりわけ認識すること(percipiens)に帰することができないため、しかしながらこの時機、言語幻覚についての先入観なき検査にとっては、全く正当なものであるように思われるに違いない。
 言語幻覚がどんな認識されるものとも同じ水準にないということが極端に言えば、考えられるので、(例えば、耳が聞こえなかったり、口が聞けなかったりする患者の場合、あるいは幻覚性の言葉を綴るといった非聴覚性の何かについての領域の場合)、実際、言語幻覚をその性質から聴覚性のものだと思うことは間違いである。しかしとりわけ、[何かを]聴くという行為が同じではない[=文脈に依存する]と考える。この[何かを聴くという]行為は言葉の鎖の一貫性を対象とすることに従いもするし、―とりわけ、[この言葉の鎖の一貫性とは]言葉の鎖のシークエンスの事後性による言葉の鎖のたえざる重層決定や、いつもすぐに延期され得る意味の到来に際しての言葉の鎖の価値についての絶えざる留保[であり、聴くという行為はこれを対象としもする]―あるいは[何かを聴くという]行為は有声の抑揚を帯びたパロールのうちで、声調の聴覚的(acoustique)な、あるいは音声学的分析それどころか音楽的威力(puissance)の目的のために適応するということ[に従いもするのである。]
 これらの非常に短い諸警告は認識されるものを対象とすることにおける主体性を引き立たせるのに十分であろう[が、実はそうではない。](そして同様にこの言語幻覚は患者への審問や《声》についての疾病学のうちでどれほど誤認されていることだろうか。)
 しかし人はこの違いを認識すること(percipiens)における対象化へと還元するということを言い張るのである。
 ところが、全然そんなことはない。というのも、それは主観的《総合( synthèse)》がパロールに対してその[=この総合の]充溢した意味を与えるからである。この充溢した意味[の内容]は主体が全ての諸パラドックスを示すということである。この特異的な認識のうちで主体はこの諸パラドックスの患者[というより被害者]になるのである。パロールを声高く発するものが、小文字の他者である場合に、この諸パラドックスが既に現れているということは、[小文字の他者の]パロールが主体に聴くことを命令し、主体に注意することを命令する限りにおいて、小文字の他者に従う可能性を主体において十分に明示するものである。というのも、ただ小文字の他者のパロールの弁論のうちへと入ることによって[=小文字の他者のパロールに聞き入ることによって]、主体は暗示の影響下に陥る。主体はまさに小文字の他者を、まさに運搬するパロールへと―このパロールは主体自身のものではないディスクールを運搬し、または主体が自身のディスクールにおいて留保しておく意図を運搬する―還元することによってのみこの暗示から逃れるのである。
 しかしさらに驚くべきことに、主体に固有なパロールと主体の関係が存在する。そこにおいては、重要なことが全く聴覚的な(acoustique)事実によってむしろ覆い隠されている。その聴覚的な事実とは主体は自身[の声]を聴くことなしには喋ることができないということである。意識の振る舞いにおいて、「主体は自身を分裂させることなく自ら[の声]を聴くことができない」ということにも特権的なことは何もないのである。治療者たちは、為されかけた発声運動の検知によって[=思わず言いかけてやっぱり止める時の動き、息の吸い込み、体の動きを探知することによってということ?]言葉により駆動される幻覚を見つけ出すことで、より良い一歩を踏み出したのである。しかし治療者たちはそれにも関わらず、決定的な点がどこにあるのかを分節化しなかったのである。[この重要な点とは]つまり諸感覚中枢(sensorium)はシニフィアンの鎖の生成において、重要ではないということである。

1.声に起因するシニフィアンの鎖の次元において、シニフィアンの鎖はシニフィアンの鎖それ自体によって、自身を主体へ押し付ける。
2.シニフィアンの鎖は時間に応じた現実を( une réalité proportionnelle au temps)[=刻一刻と変化する現実を?]経験において完全に観測可能なものとして受け取る。この経験(?)は主体の主観的な割り当てが結果的にもたらすものである。
3.規則のうちで配分的なこの割り当てのうちでシニフィアンが決定的である限りでの、シニフィアンの鎖に固有な構造―つまり、それはいくつもの声である。いくつもの声はそれゆえ自称統一するものであるところの認識すること(percipiens)をどうとでも解釈できるものとして定立する。

3私たちは、我々の1955~1956年の症例提示から取り出された現象によって何が表わされたのかを例証する。1955~1956年はまさに、我々がここで言及している研究についてのセミネールの年である。類似した掘り出しもの[=つまり類似した症例ってこと?]はたとえこの掘り出し物が予測されていたものだとしても、本来的に主体的な患者の諸立場への完全な服従の対価としてしかあり得ない。[この本来的に主体的な患者の]諸立場は、[医者と患者との]対話においてそれらを病的なプロセスへと非常にしばしば還元されてしまう。その際に、この[本来的に主体的な患者の]諸立場を主体に根ざす根拠なしには引き起こされえないためらいで満たす(pénétrer)ことの難しさを強化している。[=患者(主体)の、何かを述べることに対するためらいを探索する(pénétrer)ことの難しさを強化しているということ?。](コメント2)
 実際、問題となっていることは、二人に共有されている妄想(délires à deux )のうちの一つである。ずっと前から我々は母-娘のペアにおける[この症例の]類型を示してきた。そして、この症例において侵入(intrusion)の感覚は監視されているという妄想へと発展した。この侵入(intrusion)の感覚はまさに情動的二重性(binaire affectif)に固有の防衛の発展であったのである。この発展はどんな精神錯乱( aliénation)に対してもそのようなものとして開かれているのである。[=つまりどんな精神錯乱の症例でも侵入の感覚は監視されているという妄想へと発展する可能性があるってこと?]
 我々の診察の際にその娘[以降原文中で女性患者と表記される]は我々に、彼女らの女性隣人からの侮辱の証拠として、その女性の隣人の愛人に関する事実を提出した。母とその娘の二人ともがこの侮辱の矢面に立たされていたのである。彼女らが、最初は好意的に受け入れられたこの女性の隣人との親密な関係を終わらせることを余儀なくされて以降、この女性の隣人の愛人は彼女らを彼の諸攻撃によって悩ませていると看做されていた。この男は、それゆえこの状況において間接的な仕方で当事者なのであり、そのうえ女性患者の申し立てのうちでは十分に目立たない人物なのである。[女性患者の申し立てとは]その男が女性患者が住んでいるマンションの廊下ですれ違いざまに、「雌豚!」という下品な単語を発するのを聞かなければならないというものである。
 彼女に対して我々は、殆ど「雄豚!」[と応える]報復を見出す気持ちがない。[この報復は]投影の名称を適用するのが非常に容易であるのだが、投影は決して精神科医[自身の]投影の場合を表す以上のものではない。我々は女性患者に率直に、何がこの女性患者の中でその瞬間の前に[=「雌豚!」と言われる前に]自ら発言したのかを問うた。これは不首尾には終わらなかった。というのも女性患者は我々にほほ笑みで譲歩したのである。彼女はその男を見たとき確かにつぶやいたのである。彼女によれば、彼女が発した言葉たちによってその男が不快になるはずはなかったのである。「私、豚肉屋から来たの…」
 これらの言葉たち[=「私、豚肉屋から来たの…」]は何を狙っているのか?彼女はこのことを言いかねており、我々は正当に彼女がそれを言うことを助けたのである。彼女が発した言葉の文字通りの意味について、我々は他の諸々の事実のうちで、次の事実を無視することはできないだろう。[その事実とは即ち、]女性患者が大変突然に彼女の夫と義理の家族から逃げ出し、そうして彼女の母から反対された結婚にそれ以来エピローグのない結末を与えたという事実である。[彼女の義理の家族からの出奔は]田舎者たちが、この何もできない( propre à rien de)都会の娘と縁を切るために、まさに彼女を適切に解体(dépecer )しようとしているのだという彼女が得た確信に端を発している。
 しかしながら、双数=決闘的関係に囚われている女性患者がどのように、彼女の理解を超えている(qui la dépasse)状況に対してここで新たに応答するのかを理解するために、ひとが断片化された(morcelé)身体の空想に危うく頼ってしまうのか否かは重要ではない。
 現在の我々の目的に際しては、女性患者がそのフレーズが当てこすり的(allusive)であったということを認めたことで十分である。それにも関わらず、二人の人間が現前する、あるいは或る不在の人間が当てこすりを担っているということを把握するに際して、彼女が当惑以外は何も示すことはなかったのだが。というのも、つまり直接的形式[つまり直接的発話(direct speech)]のフレーズの主体としての「私」(je)は宙づりにされているように思われる。この機能は言語学においてシフター(原注1)と呼ばれるものに合致する。幻覚である限りは、疑いなく魔を払う[conjuratoire]主体の意図の内で、発話する主体の名指しは振動し続ける。この不確かさは中断[pause]を通じて、振動の等時性についていくにはそれ自身罵りでこてこての「雌豚」という語の添付とともに終わったのである。
 以上がどのようにディスクールが幻覚のなかで主体が拒絶した意図を実現するのか、である。言葉に尽くしがたい(indicible)対象が現実界の内へと拒絶された場合、語は自身を聞こえさせる。というのも、[語が] 名前のない場所へと至る時、応答の連結符[ダッシュ「―」のこと]によって主体の意図を外れることなくしては、語は主体の意図に従い得ないからだ。:その時以来女性患者に「私」(je)という指標(index)と共に位置づけられたストロペーを冒涜することを非難する主体のアンティストロペーに反すること、また主体の不透明さのうちで愛の投擲を再び接合することは、主体の祝婚歌(épithalame)の対象を呼び寄せるためのシニフィアンが欠乏する時に、主体は最も露骨な想像的な表現手段を[祝婚歌の対象を]呼び寄せるために用いるのである。「お前を食ってやる!....-私のかわいこちゃん!(Chou!)」「あなたはうっとりする…-ネズミ[野郎]!(Rat!)」

4この症例はここで、剥き出しの形において[=実際の場合において]非現実化の機能が全く象徴界のうちにあるものではないということを把握するためにまさに挙げられたのである。というのも、現実界の内への非現実化の闖入(irruption)がたしかなものであるためには、シニフィアンが、よくあるように、シニフィアンの鎖の破綻という形態で、自身を示せば十分であるからだ。(原注2)
 こうして人はこの症例においてこの効果に触れる。その効果は一度認識された全てシニフィアンが認識すること(percipiens)において、シニフィアンの明白な曖昧さが認識すること(percipiens)の隠された二重性の復活により形成された合意(assentiment)を想起させるという効果である。
 当然、このことはすべて統一する主体の古典的な認識における鏡像の効果として捉えられる。
 それ自身にまで還元されたこの観点が例えば幻覚について、まさに以下のような狂人による仕事といった貧弱な視点しか与えないのは衝撃的である。[このような狂人の中で]最も注目に値するのはもちろん『ある神経症患者の手記』(原注3)におけるシュレーバー議長であることは明白である。[こうした狂人による仕事は=つまりシュレーバー回想録は]フロイト以前から心理学者の側から活発に受け入れられた後に、フロイト以降でも同様に、精神病の現象学への導入を提起するための文集として受け取られた[=精神病の現象学の導入に役立つ文集として受け取られた]。そして[この導入の役割は]初学者に限らないものである。(原注4)
 1955~1956年度の我々のセミネールにおいて、精神病におけるフロイト的諸構造について扱った際に、我々はフロイトのアドバイスにしたがって、それ[=精神病におけるフロイト的諸構造]についての検討を再び取り上げた時に、それ[=シュレーバー回想録]は我々に、我々自身に、構造の分析の基礎を提供した。
 シニフィアンと主体の関係こそ、本論の序論おいて見られるように、現象という観点からこの分析が発見し、出くわしたものである。もしフロイトの経験から抜け出せば、ひとはシニフィアンと主体の関係が導いてゆく地点を知るのである。
 しかしこの現象から出発することが、適切に追求されるのなら、この地点を再発見するだろう。我々にとってそれはパラノイアについての以前の研究が30年前に我々を精神分析の臨界閾へと導いた時と同様である。(原注5)
 ヤスパースにおいて症状はまさに徴候でしかないのであるが、精神病の水準においてヤスパースの意味での心理学的過程における偽りの認識以上にまさに的外れな場所はない。というのも、もし症状を察知することができるのなら、症状は構造それ自体のうち以上に、明快に分節化される場所はないからである。
 我々を強いるものは、この過程[=ヤスパースの意味での心理学的過程]を人間とシニフィアンとの最もラディカルな関係の諸決定因子(déterminants)によって定義するということである。

5しかし、シュレーバー回想録において展開される諸言語幻覚の多様性に関心を持つためにそこまでする必要はない。またこれらの諸言語幻覚について諸差異を認識するのにそこまでする必要はない。これらの諸差異は、ひとがこれらの諸言語幻覚を、認識すること(percipiens)(その[=言語幻覚を見ている人の?]「信仰」の度合い)または後者[=percipiens?](「聴覚化」(auditivation))の現実性における諸言語幻覚の関わり合い形式(mode d'implication)にしたがって「古典的に」分類する場合の差異とは全くの別物である。つまり、[これらの諸差異は]むしろ、それら[=諸言語幻覚の?]のパロールの構造に起因する諸差異なのである。それは、この構造は既に認識されるもの(perceptum)のうちにある限りにおいて、である。(コメント3)
 幻覚についてのテキストのみについて考えると、言語学者にとってはある区別がコードの現象とメッセージの現象の間に直ちに生じる。
 このアプローチにおいて、コードの現象に属するのは共通基語(Grundsprache)[※言語学の訳語を借用したが言語学的なコンテクストがあるのかは不明]を用いる声である。この共通基語は我々が”基本言語(langue-de-fond)”という語によって翻訳したものである。そしてこれはシュレーバーが以下のように述べたものである(S. 13-I)(原注6)。「少々古風なドイツ語、しかし常に厳格で、遠回しな表現の大変なその豊かさによって全く特別に注目される。」他の箇所 (S. 167-XII)で、シュレーバーは名残惜しさと共に「高貴な気品と気取りのなさを示す言動のその古風な形態に」を回想している。
 諸現象のこの部分[=コード現象に属する部分]は新語義の諸熟語( locutions néologiques)[=言語新作(néologisime)によって作られた新造語]において、そうした諸熟語の形態(新しい複合語、ただしその複合法は患者の言語[Fink:母語]の慣例に合致したものである)や用法によって明示されている。幻覚は主体に新しいコードを構成する形態と用法を通知する。例えばまず第一に、主体は、共通基語(Grundsprache)の命名についてそれらの新しいコードのお陰を被っている。主体はこの共通基語(Grundsprache)によって新しいコードを指し示すのである。
 問題となっているのはこれらのメッセージに十分類似した何かである。そのメッセージとは言語学者たちがオートニム(autonyms)(訳注3)と呼んでいるものである。それは、この問題となっているものが自身を指し示すシニフィアンであり、(そしてそれが[何か別のものを]しるしざすものではなく、)コミュニケーションの対象である限りにおいて、である。しかしこの特異的でありながら正常であるような、メッセージのそれ自身との関係はここで自身を二重化する。これらのメッセージは存在によって支えられたものとして受け取られる。これらのメッセージはそれら自身で、この存在の関係をある様式のうちで表している。その様式は自身をシニフィアンの諸々の結びつきに非常に類似したものであると証明するような様式である。神経の繋がり(Nervenanhang)という語を我々は神経の併合(annexion-de-nerfs)[という語]によって訳した。そしてこの神経の併合という語は、こうしてこれらのメッセージに由来するものであり、この指摘を明示するのである。その指摘は、これらの諸存在の間で熱情と行動がこれらの併合された諸神経と脱併合(desannexés)された諸神経へと自身を還元する限りでの指摘である。しかし、ここで神的な光線(Gottesstrahlen)においては諸神経は均一であるのだが、この神的な光線と同様に、この諸神経はそれらが支えるパロールの実体化(entification)に他ならないのである。(S. 130-X :諸々の声[=シュレーバーの幻聴]は以下のように述べている「諸光線の本性は話さなければならないということであることを忘れぬように」)
 ここで[問題となっている]、システムの自身に固有なシニフィアン構成との関係はメタ言語の問いに関する問題の下に添付されるべきである。そしてもし、この関係がランガージュのうちの異なる諸要素を明確にしようとするならば、我々の見解では、この関係はこの概念が不適切であることを明らかにするだろう。
 ここで[問題となっている]、システムの自身に固有なシニフィアン構成との関係はメタ言語の問いに関する問題の下に添付されるべきである。そしてもし、この関係がランガージュのうちの異なる諸要素を明確にしようとするならば、我々の見解では、この関係はこの概念が不適切であることを明らかにするだろう。
 そのうえ、以下のことを指摘しよう。即ち、ここで我々は直観的であると思われていたような諸現象に直面しているのである。というのも、こうした諸現象において意味作用の効果が意味作用の発展を先取りしているからだ。実際のところ、問題となっているのはシニフィアンの効果であるが、それは意味作用の確信の度合い([つまりそれは]第二の水準:意味作用の意味作用[である])が暗号的空虚に比例する重要性を帯びる限りにおいてである。この暗号的空虚は何よりも意味作用それ自身の代わりとして出現する。
 この症例において愉快なことは、以下のことである。即ち、主体にとってシニフィアンのこの大きな緊張がよわまってしまうと、つまり幻覚がリトルネロ[=要するに繰り返し、独:単調なメロディー(Singsang)]やしつこい反復(serinage)[恐らくはハム音みたいなモノ?、独:Geleier]へと還元される(訳注4)につれて、―この幻覚の空虚は知性も人格も欠いた存在が原因とされるにつれて、さらに率直に言えばこの幻覚の空虚は存在の領域から抹消されるにつれて、―まさにこの範囲において、我々が述べていたように、諸々の声は「魂たちの考え」(Seelenauffassung)、魂たちの考え(conception-des-âmes [=Seelenauffassungの仏訳])(訳注5)を引き合いに出してくるという事である。この魂たちの考えは一冊の古典的心理学の本にふさわしいような諸観念のカタログのうちに現れる。諸々の声のなかでこのカタログは衒学的な意図と関連している。このカタログは主体[=シュレーバー]が最も適切な諸論評をそこにもたらすのを妨げない。これらの諸論評において諸用語の出所は常に念入りに明らかにされているということに留意しよう。例えば、主体[=シュレーバー]が「審級(Instanz)」という語を用いている場合、主体は注において、そこでの言葉は自身からのものであるということを強調している。(S. 30-IIの注、 11~ 21-Iの注)(訳注6)
 そういうわけで、心的経済における記憶の思考(pensées-de-mémoire )(Erinnerrungsgedanken[人間の回想思考])の大変な重要性はシュレーバーから逃れることはないのであり、シュレーバーはすぐ後に人間回想回路の大変な重要性の証明を詩の用法や音楽の転調を伴う反復についての用法のうちに示している。(訳注7)
 我々の患者は「魂たちが人間の生と思考から自ら作り上げた少々理想化された表現」[邦訳:「人間の生活と思考にかんして魂たちが形成してきた、多少とも理想化された表象」] (S. I64XII)としての「魂たちの見解( conception des âmes)」を大変貴重なものとして形容した。そして我々の患者はまた、この魂たちの見解は「心理学者たちがうらやむであろうような、人間による思考のプロセスと感情のプロセスの概略を獲得」したと考えた。(S. 167-XII)(訳注8)
 我々はシュレーバーに対して、心理学者たちとは違ってなおさら喜んで以下のことを認める。即ち、これらの諸認識―シュレーバーはこの諸認識の重要性をとてもユーモラスに評価している―をシュレーバーは事物の性質に由来するものだと思いこまなかったのであると。また即ち、もしシュレーバーが事物の性質を利用せざるを得ないと、考えたとしても、我々が先に示したように、これらの諸認識は意味論的分析に端を発するものであると(原注7)!
 しかし我々の筋道を取り上げなおすために、諸現象に立ち返ろう。この諸現象は、我々が先の諸現象[=コード幻覚]に対してメッセージの諸現象として対比させたものである。
 問題となっているのは中断されたメッセージである。これらのメッセージによって、主体と主体の神的な対話者との間の関係が維持されるのである。これらのメッセージはこの関係にチャレンジまたは、忍耐の試練という形態を与える。
 パートナーの声は実際、問題となっているメッセージをフレーズの言い始めへと制限する。このフレーズの意味を補うことは、しかも主体に対して難しさを提示することはない[=このメッセージの残りの意味は主体によって難なく補われる]。ただし、このフレーズの攻撃的な側面、侮辱的な側面―これらはたいていの場合はがっかりさせるような愚かな言動であるのだが―を別として、である。彼の応答において彼が過ちを犯さず、それどころか彼を誘いこむ罠の裏をかくということによって示す勇気は我々の現象についての分析に対して少なからざる重要性を持っている。(コメント4)
 しかしここで幻覚的な挑発(provocation)(あるいは条件節といったほうがいいか)と呼ばれるテキストそれ自体に立ち止まろう。このような構造について、主体[=シュレーバー]は我々に以下のような諸例を与える。(S. 217--XVI)
1):さて私は、つもりだ[Nun will ich mich, ]
2):あなたは、つまり、べきだ[Sie sollen nämlich,]
3):それを私は、つもりだ[Das will ich mir,]
我々はこれら三つにとどめておく。これら三つに対してシュレーバーは彼にとって疑わしくないような明白な補足によって返答せねばならず(訳注10
)、
1.さて私は、私が馬鹿であるという事実を受け入れるつもりだ。[Nun will ich mich darein ergeben, daß ich dumm bin]
2.あなたは、つまり、無神論者として、官能的放縦に身をゆだねたこと、残りのことは言うまでもなく、に関して(基本の言葉によって)提示されるべきだ。[Sie sollen nämlich dargestellt werden als Gottesleugner, als wollüstigen Ausschweifungen ergeben usw.;]
3.それを私はまず[独:erst、仏:bien]、考えるつもりだ。[Das will ich mir erst überlegen;]

フレーズは語のグループが終わる点において中断しているということが指摘される。これらの語は指標語(termes-index)と呼んでもいいだろう。つまりこの指標語はその機能によってシニフィアンのうちに―先に用いた語に従えば―シフターとして指し示される。この指標語はまさに、コードのうちでメッセージそれ自体から出発して主体の位置を指し示す諸々の語である。
 その後、フレーズの固有な語彙の部分、言い換えればコードがその用法によって定義する語を含む部分―問題となっているのが共通のコード[=我々の?コード、普通のコード]であるにせよ譫妄状態のコードであるにせよ―が省略されたまま残るのである。
 諸現象のこれら二つの秩序[=コード幻覚とメッセージ幻覚]におけるシニフィアンの機能の重要性は驚くべきことではないだろうか?さらに[これら二つの秩序は、]それらが構成する連合(assocination)の根底にあるものを探求させる気にさせるものではないだろうか?:[この連合は]コードについてのメッセージによって構成されたコードと、コードの中でメッセージを示すものへと還元されたメッセージ「から構成される。」
 これら全てが非常な気配りを以てグラフへ(訳注11)と移されることを必用とするであろう(p.808参照)。このグラフにおいて我々はちょうどこの年に、主体を構成する限りでのシニフィアンとの内的接続を表現することを試みた。
 というのも、あるトポロジーが存在するからである。このトポロジーは、現象の形態と神経系において現象が伝達される経路との間の直接の類似の要請が想像させ得るであろうようなトポロジーとは全く別物である。
 しかしこのトポロジーはフロイトが発端となる線上にある。それはフロイトが夢によって無意識の領野を開いた後に、皮質の局在化に関するなんの配慮にも気づくことなしに無意識のダイナミクスを詳述することに身を投じた時、このトポロジーは、まさに最もよく皮質の表面についての問いを準備するものである。
 というのも、まさにランガージュの現象についての言語的分析の後においてのみ、ある関係が正当に打ち立てられ得るのである。その関係は、ランガージュが主体のうちにおいて構成し、また同時に(数学のネットワーク理論においてこの用語が持つ純粋に連想的(associatif)な意味での)«諸機械の»秩序を限定する関係である。これらの諸機械がこの現象を実現できるのである。
 ここで示された方向のうちへと、これらの筋道の作者[=ラカン]を誘いこんだものがフロイト的経験であるということは注目すべきである。それゆえ、我々の問いのうちに、この経験が何をもたらしたのかについて論じよう。

原注

  1. ローマン・ヤコブソンはこの用語をイェスペルセンからメッセージの諸座標(帰属(attribution)[=彼の、彼女の]、日付(datation)[=今日、昨日]、発話者の位置[=私は、彼女は、])のみを意味するようなコードに従う言葉たちを指し示すために借用した。パースの分類を参照すれば、このシフターは指標としての諸記号(symboles-index)である。諸々の人称代名詞が最も優れた例である。人称代名詞の習得並びに、人称代名詞の機能的欠損[=人称代名詞に明確な「意味」は与えられず、文脈のなかでのみその意味を解釈できること?]の難しさは主体におけるこれらの諸シニフィアンによって引き起こされた問題系を描いている。 (Roman Jakobson. Shifters, verbal categories, and the russian verb, Russian language project, Department of Slavic languages and litteratures, Harvard University, 1957.)(訳注1)

  2. 1956年2月8日のセミネールを参照。そこで我々は「夕べの安らぎ」という《通常の》発話の例について議論した。(訳注2)

  3. Denkwürdigkeiten eines Nervenkranken, von Dr. jus. Daniel-Paul Schreber, Senätspräsident beim kgl. Oberlandesgericht Dresden a-D.-Oswald Mutze in Leipzig, 1903,我々のグループ内での使用に際して我々はフランス語の翻訳を用意した

  4. とりわけ、この回想録の英訳者が表明した見解は、我々のセミネールの年報(cf. Memoirs of my nervous illness, translated by Ida Macalpine and Richard Humer (W. M. Dawson and sons, London)の彼らによる導入部で見られる。(p.25)その見解は同時にシュレーバー回想録の運命について説明している。(pp.6-10)

  5. それは私の医学博士論文:『人格の関係から見たパラノイア性精神病』である。この論文について我々の師 Heuyerは私に対して書き送り、適切に力強く以下のように評している。「燕が一匹来たからといって春になったのではない。[=一斑を見て全豹を卜すべからず。]」そして私の書誌に関してこの諺を加えていた。「もしあなたがそれらを全部読んだなら、私はあなたを気の毒に思う。私は実際、全てを読んだのだ。」

  6. 数字(それぞれアラビア数字、ローマ数字)を伴った大文字Sを含む括弧は、このテキストにおいて[ドイツ語の]初版のシュレーバー回想録ページと章を参照するために用いられる。ページ付けは大変幸運にも英語版の欄外に記載されている。[また訳者が参照した日本語訳にもドイツ語版との対応ページが書いてある。]

  7. ここでの我々の称賛はまさにフロイトの称賛を延長したものであるということに留意しよう。このフロイトの称賛はシュレーバーの妄想それ自体のうちにリビード理論の先取りを認めるということを嫌うものではない。(G. W., VIII, p. 315に対応)(訳注9)

訳注

訳注1:

言語学者が通信理論から得るべき刺激は実にたくさんある。ふつうの伝達の仮定は、符号化者と復号化者とがあって成り立つ。符号化者はメッセージを受け取る。彼はコードを知っている。メッセージははじめてのものである。それで、コードによってメッセージを解くわけである。

ヤーコブソン、一般言語学,p.11

いかなる言語コードでも、イェスペルゼンが転換子(Shifter)と名づけた文法的単位の特殊な類を持っている。:転換子の一般的意味はメッセージに関説しなければ定義できない。
 それらの記号としての性質については、バークスが、記号を象徴symbol、指標、写像に分けるパースの分類についての研究の中で論じた。パースによれば、象徴(例えば、英語のredという単語)は慣習規則によって対象に結びつけられているのに対し、指標(たとえば、指さすという行為)は、それが表示する対象と実存的関係(relration existentielle)にある。転換子はこの両方の機能を合わせもっており、したがって指標的象徴indexical symbolという類に属する。顕著な例としてバークスは、人称代名詞を挙げている。Iという単語はIと言っている人を意味する。したがってIという記号は”慣習規則”によってその対象と連合されていなければその対象を表すことができず、したがって異なったコードにおいては、同じ意味がI,ego,ich,jeなどの異なった序列に当てがわれているのである。他方、Iという記号はその対象と”実存的関係に”あるのでなければ、この対象を表すことができない:発話者を示すIという単語はその発話と実存的に関係しており、したがって、指標として機能する。
 人称代名詞やそのほかの転換子の持つ特性は、単一の、一定した、一般的意味の欠如にあるとしばしば信ぜられた。フッサールはichという単語は場合場合によって別の人物を指すが、それは、その度ごとに新しい意味によってこのことを行うのである。(※独語原文は省略)と言っている。このような脈絡的意味の多様性があるとされたゆえに転換子は象徴とは違って単なる指標として扱われた。しかしながらどの転換子もそれ自身の一般的意味を持っている。例えばIはそれが属するメッセージの発信者(youならば受信者)を意味する。バートランド・ラッセルにとっては、転換子、すなわち彼の用語でいう”自己中心的特殊語”は、一度に二つ以上のものには適用されないという事実によって定義づけられる。しかし、この点はすべての範疇付属語に共通しているのである。たとえば、butという接続詞は一回ごとに、述べられた二つの概念間の反対関係を示し、反対という一般的な観念を表しはしない。事実、転換子が言語コードの他の全ての構成要素から区別されるのは、ひとえに、それらがある与えられたメッセージに必ず関説されなければならないということによってである。

ヤコブソン、一般言語学p.152、日本語訳は英語版をもとにした翻訳であり、仏語版とは若干構成が異なる()で補った訳語は仏語版を参照、()がついていないのは本に載っていた。

訳注2:
精神病(上)p.225~p.231の議論?
stafera版ならp.112~に対応

訳注3:
自身の属している集団をさすような語のことをautonymという。例えば日本人が自身の属している集団を指す言葉がnipponだがアメリカ人が日本人の属している集団を指すときの言葉はjapanである。このnipponがautonymsとなる。ちなみに、endonymという語の方が一般的なようである。

訳注4:

声のおしゃべりは、すでに第九章で指摘されているように、この当時においてすでに、単調でうんざりさせるような、反復される言い回しの繰り返しからなる退屈な決まり文句の騒々しい騒ぎにほかならなかった。そのうえそれは個々の単語そして音節さえも省略されることによって、ますますひどく文法的な不完全さの刻印を帯びたものとなっていた。その当時においては、なお、絶えず、一定数の言い回しが現れていたが、それを特に論評することは無駄ではない。なぜなら、それは魂たちの考えかたの全体を、そして、人間の生活や人間の思考に関するそれらの考えかたを間接的に興味深く表していたからである。

ある神経症者の回想録p.134

訳注5

事象に即した一定の意味が籠っているその他一群の言い回しは、「魂たちの考え」を語っているものであった。ここにもまた基底には注目に値する、価値ある思考が存していた。その根本的な意義において、魂たちの考え[ここは邦訳では「魂たちの見解」となっていたが、Seelenauffassungであったので改変した]は、私の判断によれば、人間の生活と思考にかんして魂たちが形成してきた、多少とも理想化された表象なのである。魂たちは、過去に存在した人間の、この世から去ってしまった精神に他ならない。

ある神経症者の回想録p.135(一部改変)

のちになって「魂たちの考え」の言い回しは全く別の意味を持つようになった。それらは単なる陳腐な決まり文句になり下がってしまい、独自の考えが完全に欠乏してしまって(第九章参照)、それらの言い回しでもって、ただ話す欲求のみが満足させられていた。「貴殿が魂の考えに結び付けられていることを忘れるでない」そして「何となれば、つまりそれは魂の考えによると多すぎたのだ」という文句が間断なく反復される空虚な決まり文句となり、これの何千回もの反復でもって、私は数年来ほとんど耐えきれないほどに苦しめられてきたのであり、今なお苦しめられているのである。後者の決まり文句は、私の中に新たに現れた考えに対して、さらにいろいろと言うべきことがわからない場合に、ほとんど規則的に出てくる返答であって、その余り上品でない文体様式からしても、すでに現れてしまった頽落ぶりが認められるものである。真の基本の言葉、すなわち魂たちの現実の感覚の表現は、丸暗記された決まり文句がなかった当時には、なお、高貴さと気高い単純性に貫かれた形式においても抜きんでたものであった。

ある神経症者の回想録p.138

訳注6

(1902年11月の補遺)途方もない離隔において作用し、個々の人間の肉体から、あるいは―私の場合―唯ひとりの人間の肉体から発する引力という観念は、それ自体において考察されるならば、すなわち、その他われわれに周知の自然力の様式に即して単に機械的に作動する原動力が考えられるのであるならば、全く馬鹿げたことと思われるにちがいあるまい。

ある神経症者の回想録p.17,注5,S. 11à 21-1に対応

「天上の階段」なる表現は私によって考え出されたのではなく、この論述の中で引用符とともに与えられている全ての他の表現(例えば上記した「束の間に組み立てられた男たち」、「夢の生活」など)と同様に、私と対話する声が当該の出来事を私に告げるその都度の命名を翻訳したものに過ぎない。

ある神経症者の回想録p.19,注6(S. 11à 21-1に対応)

(私自身から発した)「審級」なる表現は、先の「階級」と同様に、神の国の体制に関するおおよその像を与えるためには正当であるように思われる。

ある神経症者の回想録p.31,注19(S. 11à 21-1に対応)

訳注7:

「人間の回想思考」はこれとは[=「反省の思考」]別の現象の名であり、これによって人間は不随意的に、彼が把握した何らかの重要な思考を即座に生じる反復によって彼の意識に堅く刻みつけんとする必用を感知するのである。―「人間の回想思考」が人間の思考および感覚過程の本質の中にいかに深く基礎づけられているかということを示している「人間の回想思考」の非常に特徴的な現象形態は、例えば、詩の中に現れてくる折り返し(=リフレイン)の中に含まれており、また同様に、人間の感覚にふさわしい美の理念の具現を内包している特定の旋律が同一の楽曲において単に一度だけ出現するのではなく、全く規則的に、即座に反復されるようになっている音楽の作曲の中にも現れている。―「魂たちの考え」においては、両性の関係およびそれぞれに相応する行為様式、嗜好の等に関連した表象が非常に広い領域を占めていた。たとえば寝台、手鏡そして熊手(草かき)は女性的であり、籐椅子や鋤は男性的であって、遊びに関しては、チェスは男性的、西洋碁は女性的などとなっていた。

ある神経症者の回想録p.136

訳注8:

ここにもまた基底には注目に値する、価値ある思考が存していた。

ある神経症者の回想録p.135(S. I64XII)に対応

この短い注釈[=両性の関係およびそれぞれに相応する行為様式、嗜好の等に関連した表象(p.136)についての注釈。具体的内容は長いので本を見てください。]は、いかなる概念が「魂たちの考え」なる表現とその根本的な意味において結びついていたか、ということに関しておおよその観念を与えるためには十分であろう。当のこの解明―ちなみにこれは全体として私の病気の初期に生じたものである―を私は、一部は言語表現的な報告に、一部はそれ以外の、魂たちとの交流において得られた印象に負うている。私はその際に人間の思考過程および人間の感覚の本質への洞察を得たが、これに関しては多くの心理学者が羨むかもしれないほどである。

ある神経症者の回想録p.138

訳注9

私は、批判を恐れないし自己批判をためらつもりもないゆえ、われわれのリビード理論に対する多くの読者の評価を損ないかねない一つの類似性に言及するのを避けようとする気持ちなど全くない。太陽光線、神経繊維、そのして精子の縮合によって構成されたシュレーバーの言うところの「神の光線」は、実際のところ、物的に表現され外界に向けて投射されたリビード備給以外のなにものでもないのであって、この事実が、彼の妄想に、われわれの理論と奇妙に共鳴する性質を与えている。患者の自我がすべての光線をおのれの方に牽引するがゆえに、世界は没落しなければならないということ、後年の再構成過程の期間を通じて、神が自分との光線結合を解除しないであろうかという不安に満ちた心配が患者を支配し続けていること、シュレーバーの妄想形成に見られるこのような、あるいはその他多くの個別的な事柄が、パラノイア理解のために私が本稿において基礎に置いてきた精神内界事情知覚に関する仮説と密に共鳴しているのである。

フロイト全集11p.183(G. W., VIII, p. 315).に対応

訳注10:

最初の数年間、私の神経は、開始されたすべての関係文章について、話し出された全ての決まり文句について、人間の精神を満足させるような続きを見つけ出すことを、実際、抵抗し難い強制と感じていた。つまり例えば、通常の人間的交流において、一方の者の問いかけに必ず答えが規則的に与えられるのと同様のことが強制的に要求されていたのである。

ある神経症者の回想録p.181

訳注11:
ここで言われている「グラフ」とは欲望のグラフの下部分のこと。また同じ段落の「この年」とはこの論文が書かれた1957~1958年あるいはこの論文が掲載された1959年の事か。セミネールで言えばS5無意識の形成物、S6欲望とその解釈に該当
欲望のグラフの下部分の解釈はS5,06 Novembre 1957を参照すればよさそう

コメント

  1. 自然科学は一層の数学化の中で「人間くささ」と言ったものが一層消えて行っている。例えば、(これは数学化なのかはわからないが)以前は1kgをキログラム原器によって定義していたが、現在はプランク定数を定義値とし、そこから1kgの質量を定義している。あるいは昔は長さを身体を基準に長さを決めていたが、今や1mは光速から定められる。このようにして自然科学は人間くささが消失している=非人間化(人間の置き換え)が生じている。しかし反-自然科学(例えば心理学とか認知科学とか?または人間の脳とかの人間の器官?)によって自然科学の人間臭さを暴露してしまっているということだと思われる。例えばブロカの人体測定学などは純粋な数値によって人間の能力を決定することができる、以下にも人間臭さを排除したような学問だが、その実は無意識的なバイアスによる解析の誤りによって支えられていた(この話は『人間の測り間違い(上)』を参照)、、、とか?

  2. めちゃ雑に言えば、患者の何かを何かを言おうとしてやっぱり止める等の行為(恐らくは失錯行為)を病的なプロセスへと無理やり還元すること(これは~の典型的な症状ですね~的な?)によって、以下でラカンが述べる見解が見落とされてしまっているということ。またそうしたラカンの見解はまさに患者の声に真剣に耳を傾けることによってのみ得られるということ。

  3. シュレーバー回想録の用語から« croyance »と«l'auditivation »はとっている可能性がある?

  4. メッセージをフレーズの言い始めへと制限する云々の話は神経の震動によって生じた断片的なフレーズをシュレーバーが補わねばならなかった話のことを述べているものと思われる。参考に回想録の一部を抜粋しておく

(中略)私はここでさらに―これまた多様に変化してしまっているものであるが―間断なく持続する思考強迫が同時にいかなる形式において現れてきたかについて若干立ち入って報告しておきたい。思考強迫の観念はすでに第五章においては以下のように規定されている。即ち思考強迫は、精神的回復、何も考えないことによる思考活動の折々の休養にかんする人間の当然の権利がそれによって侵害され、あるいは基本の言葉の表現で言うところの人間の「基底」が震撼させられるような、絶え間なき思考への強制力を持っている。光線の影響によって私の神経は、一定の人間の言葉に対応する震動状態へと移し置かれる。それゆえこの選択は私自身の意志にでなく、私に対して行使される外的な影響に基づいているのである。その際、初めから言い終わることのない方式が支配的であった。つまり私の神経が移し置かれる震動状態とそれによって生み出される言葉は、それ自体において完結終了した思考を全く持っておらず、何らかの理性的な意味充実が私の神経に対していわば課題として要請されるよな、未完の断片的言葉だけで成り立っているのである。

ある神経症者の回想録p.216

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