人生が変わった日。
必死に毎日を終わらせる
細胞診から診断まで、10日以上ありました。卒業論文は提出しましたが、まだ授業が残っていたので週に何回か大学に通っていました。何とか授業には出ていましたが、この時期はアルバイトやボランティアに行くことができませんでした。病気そのものではなく、不安の大きさに身体がついていけませんでした。最低限できることをこなしながら、どうにか生活していました。細胞診から告知までの間をどう過ごしたのか、あまり記憶がありません。時々友達に連れ出してもらいながら、1日1日を乗り越えていったのだと思います。告知前日に母が来てくれるまでどうにか頑張ろう。そう自分に言い聞かせて、必死に生きていました。
告知
12月中旬、告知の日がやってきました。母に出てきてもらい、一緒に検査結果を聞きに行きました。番号を呼ばれて診察室へ。専門病院に紹介されてから色々自分で調べる中で、告知内容を何パターンか想定していました。
私は基本的に、「最悪の場合」を想定して動いています。考えすぎることもありますが、最悪の場合を想定することで自分を守っているのです。これ以上悪いことは起こらない、と考えることが安心につながっています。今回考えられる最悪のパターンは、「悪性腫瘍で、甲状腺の左葉のみ切除」でした。
ところが主治医から告げられたのは、私の中での最悪のシナリオを上回るものでした。
「確定することはできませんが、細胞診の結果から悪性度が高いと考えられます。甲状腺をすべて取る治療を行うことが、今の段階で想定されます。」
左にだけしこりがあるから、悪性でも左葉切除で済むだろうと思っていました。甲状腺をすべて取ると、甲状腺ホルモンを補うために一生薬を飲む必要がある。自分で調べるなかで、それは分かっていました。本当は、「甲状腺をすべて取る」というのが考えられる中で最悪のシナリオだったのに。どこかで楽観視していて、全摘の可能性については考えないようにしていました。そこまで考えてしまうと自分が壊れてしまうと思って、無意識に目を背けていたのかもしれません。
告知のときに説明されたこと
告知のときに主治医から説明された内容は、
ざっくりまとめるとこんな感じでした。あくまでも、「いち香の場合」です。相づちを打ちながら、黙って聞くことしかできませんでした。泣くこともなく、ただ静かに聞いていました。涙ひとつ出てきませんでした。一通り説明を聞いた後、「今までのところで、何か質問はありますか?」と言われましたが特に何も浮かびませんでした。母は、治療が妊娠や出産に影響するのかなどを質問していました。追加の検査を受ける日とその検査結果を聞きに行く日、入院希望日を決めて、診察室を出ました。
私はAYA世代
告知後、看護師さんから入院や検査について説明を受けました。このときに、AYA世代のがん患者さんへ向けたパンフレットをもらいました。病院が作成したものです。このパンフレットを渡されたことが、AYA世代のがんについて真剣に向き合うきっかけになりました。AYA世代の患者さんに対して渡している、と言われてパンフレットを差し出されたとき初めて、「あぁ私はAYA世代なんだ。」と。そう実感しました。
入院までに必要な検査は年内に終わらせましょう、ということで、この日にできる検査(採血、尿検査、胸部X線、心電図検査)は済ませてから帰りました。
長くなってきたので、告知のときに感じたことは次の記事へ書きます。
▽ 続き
▽ まとめ
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