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めざすは、こんな幸せ。

先日、こんなことを言っている人がいました。

「わたしに比べたら、今のあなたはとても幸せだよ。だから、大丈夫だよ。」

その方は今までの人生で壮絶な体験をしてきたとのこと。確かにその話を聞くと、とてもつらいものです。「もし、わたしが同じ体験をしたら···」と想像してみても、乗り越えられる自信はありません。

でも、思うんです。
「幸せって比較じゃないからね」と。

わたしも長く暗いトンネルに入っていたことがあります。どうやって気分をあげたらいいのかわからない時期が続いたのです。そのときは、いろんな情報を探しました。トンネルを抜け出す方法を知りたくて。

その経験からわかったことは、「比較による幸福感は一時的なもの」ということです。

世の中には、今まさに困難な状況に置かれている人がたくさんいます。探せばいくらでもいるのです。時代に関係なく。

そういった情報をつかむと、「こんなにつらい思いをしている人からみたら、わたしは恵まれている。だから、こんなことでくじけてはいけない!」とその時は思うのです。

でも、それも長くは続きません。だって、世の中にはわたしより恵まれた人だってたくさんいるんですから。その時々で、つらい状況の人に意識を向けて元気になったり、恵まれた人に意識を向けて嘆いたりしていれば、行ったり来たりでなにも変わらないのです。むしろ、トンネルはさらに長くなっていきます。


そもそも、それぞれが抱えている状況なんて、計れるものではありません。

貧困で困っている外国の子供と比べて、日本の子供の悩みなんて小さなものだとは言えないのです。貧困でも、家族が仲良く助け合って暮らしている部分はうらやましく見えるかもしれません。貧困で学校に行けない子供と、いじめで学校に行けなくなった子供を比べて、どちらがどうだとは言えないのです。

お金に関することでもそうです。年収1000万だけど、1億の負債を抱えている人と、年収400万円だけど、負債がない人を比べてもどちらがいいのかわかりません。

「この先もずっと1000万稼げるなら、1億返せるかもしれないけど。でも、なにかのきっかけで収入がなくなったら···」なんて不安も頭をよぎります。もしかしたら年収400万円で、自然豊かで、家賃など生活費のあまりかからない地域で気楽に過ごした方がいいのかもしれません。

そう考えると、たびたび発表される“日本人の年収の分布”を見て、「あぁ、わたしは真ん中より下だ。」とか、「平均よりは上だ。よかった!」なんてなんの意味もありません。比較しても本当の状況は見えてこないのです。


冒頭の発言は、相手を励まそうとして言っていたのだと思います。その気持ちはとてもステキです。だけど、気持ちは受け取りつつも、さらに前へ進みたいものです。比較ではなく、“揺るぎない幸福感”です。

欲しいのは、“相対的幸福”ではなく、“絶対的幸福”です。

「誰かと比べて恵まれている」ではなく。
「なにかを持っているから幸せ」でもなく。


以前、猫が大好きな知人が、「猫と暮らすため」にマンションを買っていました。最近は増えつつあるでしょうが、まだまだペットOKのマンションは限られています。それに、賃貸では壁に猫用の足場をつけたり、ドアに猫用の通路をあけたりするのも困難です。

で、マンションを購入したと。人間のためではなく、猫のために。それは、彼女にとっては幸せなことのようです。猫のためのマンションでも、楽しそうに家の中を歩き回る猫をみられるなら、飼い主も幸せなんでしょう。

動物を飼っていないわたしからみれば、「猫にそこまで⁉」と思ってしまいますが、本人たち(猫と飼い主)が幸せならそれでいいのです。


自分の幸せを追求すると、こんな感じになることが多いです。他人からみて、「え⁉そこまでする⁇」といった感じです。だから、比較してもどうしようもないんです。

そもそも、一部の人にしかわからないところに行ってしまっているんですから。“大の猫好き”にしかわからない世界へ。わたしの物差しで、「やりすぎじゃない?」とか言えるものではないんです。


わたしが目指している場所は“絶対的幸福”です。比較ではなく、誰がなんと言おうと「あ~、幸せ。あ~、楽しい。」と言える暮らしです。

「猫、命です」と豪語する知人のような。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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