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居場所に名前があることは悪ではないけれど


みんなと一緒でいなくてはいけない。

どこかでそう思っていた私にとって、最近のマイノリティへの理解が深まってる流れによって少し心が軽くなっている。


それらが注目されているのは、個性を大事にする世の中になっていることだったり、声をあげる人がいることがあるのかなと思うけれど、私的にそのものの呼び方があるのが大きいと思っている。

例えば、気にしすぎな気質は「繊細さん」「HSP」、恋愛に興味が持てないことは「アロマンティック」など。ある種のラベルがあることで他人と違っていいんだとほっとしている。

だけど、たまに思う。
「このラベリングを居場所として図々しくなっていないだろうか」と。

以前、HSP気質の方からお悩み相談を受けたことがある。無意識にだろうけども「”私はHSPだから”〇〇できなくて…」という気持ちが滲み出ていて言葉選びに迷った。
繊細な故に卑屈に考えてしまったり、言われたことを素直に受け止めきれなかったり。私もそうだったから気持ちは痛いほど分かる。だけど、現象にひとつの名前があるから「私はこうだから」と余計にその型にはまってしまっている、そんな気がした。

かく言う私も、そういうことは全くないとは言えなくて「アロマンティック」という言葉を知って、変じゃないと安心した一方で「私はアロマンティックの要素があるから他人の恋愛なんてわからない」と恋愛話には無意識にちょっとシャットアウトしていると思う。

そして、自分自身で生きづらくなっているような。


マイノリティではなくても、「ブルべ」「イエベ」で好きな服やメイクができないのも変な話だなぁと思うことも。その色が似合わないとされているだけで、だめなわけではなくて組み合わせ次第だったり、小さな指標なだけなのに「こうだから」という思考に陥りやすい。


生きやすい世の中にするために自分の所属する場所をつくることは悪いことじゃない。
だけど、その場所から見る景色は自分の立場以外を否定することになっていないかや理解してもらえないと分断を生み出していないか考えるのは、結構大事なことだと思う。



個が発信できるようになって、少数側の人を知ることができるようになったのはいいことだし、私自身もいろんな人がいることを理解できるようになった。そのおかげで、自分は自分であると認識できるようになったとは思っている。
だけど、極端な意見が拡散されて、それに対する意見が過熱しているのを見ると、自分の立場と違うと悲しかったり、一個人の感想でも気持ちがマイナスに揺らぐこともないとは言い切れない。

自分の居場所を知るということは安心にもつながるし、存在価値を見出せるけれども、誰かに刃を向けることのないように。
自分が所属する場所が生まれたとしても、立場の違う人と相容れない場所に行くのではなく柔軟に考えられる術を持っておきたい。


自分の知らない世界を知ることは、他者へやさしくできることに繋がる。マイノリティへの理解が進むからこそ、自分の中で凝り固まったものをふわりと解こうと思うのです。


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