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自分を認めることは正しく自分を知ること


20代も後半に差し掛かって、ようやく苦手なことも少しずつ克服できるようになってきた。

自分を認める、というのも苦手だったことのひとつ。
認められるようになった方法については、少し前に書いていたので今回は割愛します。



実は幼少期からわりと最近までプライドが高かったわたし。よく言えば、負けず嫌い。ただ、できないことを認めることが悔しかった。
だからと言って、できることを「できます!」と言えるかというとそうではなくて、期待に沿えなかったら…という気持ちから自分を過小評価しがちだった。

その性格が功を奏してか、何においてもまだまだだと思って頑張る癖はあった。勉強もそれなりにして、習い事もそこそこできた。
これは以前の記事でも綴りましたね。

以前の記事では生きやすさにつながった「自己肯定感」というところで自分を認められてよかったこと的なことを書いたのですが、今回は「自分を客観的に知る」ことについて考えていきたいな、と。


前述のとおり、よいところも悪いところも小さなプライドや過小評価で正しく知ることができなかった。今思うと、プライドもあって過小評価もしてどんなに面倒な人間なんだ。笑

できないと言うことが怖くてできなくて、苦手なこともある程度自分が満足できるレベルでないといけないと考えていて、それを達成できたとしてもゴールではない。これで正しいのかわからないまま、信じているところを進む。
わがままで自分本位なのに他者からの評価を欲して、自分を苦しめていたように思います。


「できない」と自分のことを言うだけなのに怖いと感じていたのは、そう言ったときに「え、できないの!?」という相手の反応に耐えられなかったから。それは、そのひとつの小さな否定が、自分のことを丸ごと否定されるような気持ちになってしまう。
自分の軸をまだ見つけられていなかったから、どうしても他者の評価に自分の価値を委ねていた。


正しく自分を知ることができない、本当は苦手なのに意思表示しないことは、自分と相手の間に隔たりが生まれ、結局自分を自分で苦しめる。

プライドは自分の本来の価値を下げないために持つのはいいけれど、虚構に持っても仕方がない。今だったら、そう思います。


自分を知り、できないこともできませんと言えるようになったのは、自分の本来の姿を示すことに抵抗がなくなったからだと思う。
一言で自分の価値を決めてしまうような人は自分のまわりにいなくなったから、本来の姿を見せることは怖くなる必要はない。

「こう言ったらどう思われるだろう」というのは、だいたいが杞憂に終わる。そして、私の経験上、ちょっとやそっとで評価を変えるような人は良い人でない場合が多いような…


ひとつやふたつ、できないことがあったとしても自分丸ごとの価値が決まるわけでもないと思えたから、よりフラットに自分を見ることができるようになった。

これが苦手かも?と思ったら、がむしゃらにできるようにしていたけれど、嫌な気持ちになるくらいなら避けることができるようになった。自分ひとりがやらなければいけないことは限られているし、得意な人に任せるというのもひとつの手段。
どうしてもやらなければいけないことなら「よし、苦手なこともやってるぞ~~えらいぞ~~」とゆるやかな気持ちを持つように心がける。

そうやって心の持ち様を変えることで、間違った頑張り方もしなくなった。それからは気持ちがしんどいなぁと思うことも、ずいぶん減りました。


逆に得意なんだと思えたことは、素直に受け止めてそれを維持できるようにする。謙虚でいることはいいことかもしれないけど、自分を下げることはする必要はない。

あくまでも、フラットに。

私が大切にしている自分を認めることは、正しく自分を知り、あるべき場所で輝けることにつながっていると思うのです。


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