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ようやく気づくことができた、私のやりたいこと


最近よく言っていることなのだけれども、私は何かを表現することが好きということに数か月前に気が付いた。

でも思い返せば、小さいころから表現することとは縁があった。


小・中学生の頃はピアノと習字を習っていて、高校生になるとピアノと習字の代わりに部活動でしていた弦楽器が私の支えになっていた。

色々な煩わしさを忘れて、その時間は目の前のものに集中して嫌なことを考えずに済んだし、展覧会に出してもらえたり発表会に出ることで誰かに見てもらえることが嬉しかった。


そうやって、学生時代は「私」というよりは、自分の内に秘めているようなものを出すようなことで普段の生活から解放されていたのだと思う。

当時、今よりもずっとずっと自己肯定感が低かった私は誰かに認められることでしか満たされなかったから、何かを表現することで褒めてもらえることは大げさだけども存在意義を見出せるものだったと思う。

そして、舞台上での快感が忘れられないくらい好きだった。
引っ込み思案で、人見知りの私だけど、舞台の上に立ち演奏をするときだけは自分じゃないみたいな自信が溢れていた。そのあとに浴びる拍手は「気持ちいい」以外のなにものでもなかった。


いつの間にか無意識で作品を見てもらえるのが好きだったのだと思う。


社会人になってからは、仕事ばかりで表現することなんか忘れてしまった。ただ、自分の知識不足と人間関係など目の前の小さい世界に悩んでいた。

唯一、友人とのコミュニケーションツールのひとつにしていた写真を撮ることで仕事以外に逃げ道があった。
遊んだあとに友人に送って喜んでもらえたり、SNSで写真を載せてちょっと「いいね」って言ってもらえることが嬉しかった。


それが「もっといろんな人に見てもらいたい」っていう欲が出たのは今年になってから。

いろいろなもので自分の気持ちだったり好きなものを発信して見てもらえることは、以前発表会や展覧会で自分の作品を見てもらえることに快感を覚えたことと似てるような気がした。

ちょっと共感してくれる人がいるだけでよかったのが、「いつも見てます」と言ってくれる人が増えたりして「自己満足がどこかで誰かのためになれば」と思うようになってきた。



先日、よく利用するラボで行われている写真展に行ってきた。
現像のためでもあるし、初めて画面以外で見てもらえる機会(希望者参加型の写真展)で、どんな風に展示されているか見たかったからもある。

私の写真は誰かのためではない。
私のためでしかない。

それでも、一緒にいたパートナーが言うには、たまたまその場にいた人が100を超える作品を見た上で、私の作品がいちばん気に入ったと話すのが聞こえたらしい。真偽は不明だけども、自己満足でも誰かに届く感動を目の前で体験した。
それだけでも私の意欲を揺さぶるには十分すぎた。




そして今、表現することへの意欲に満ち溢れています。こうやって意欲が出ているのは、自分に自信があるわけでも、何か伝えたいことがあるわけでもなくて、自己満足でも認めてくれる人がいるからなんだろうなと思う。「素敵だよ」と言ってくれる人がいなければ、誰かに届いたという実感がなければ、ここまでの意欲は生まれなかったと思う。

そして、表現することが私にとって逃げ道で、自分を解放できる瞬間であることを気づけなかったと思う。

あのとき舞台上での快感と同じようなものを感じて生み出した写真や文章を私の分身のように思う今、この高揚感をずっとずっと持っていたいと思っている。



きっとこれからも私はわたしのためでしか写真を撮れないし、文章も書けない。

だけども、見知らぬ誰かに、目の前のあなたに届き小さな支えになれれば幸せだなと思う。



ずっと探していた私はこれがしたい!ということにようやく見つけられたような気がする。

幼いときにやっていたことという身近だったものきヒントがあるとは思っていなかった。やりたいことを見つけるまで随分と回り道したような気がする。



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