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かぼちゃクッキー

うどん、まいたけ、役立たず。きのうの自分をふりかえる。多和田葉子『献灯使』を読みはじめた。死ねない身体を授かった老人たちと自分で歩くことさえままならない子どもたちの物語。

迷惑は死語だ。よく覚えておいてほしい。昔、文明が充分に発達していなかった時代には、役にたつ人間と役にたたない人間という区別があった。君たちはそういう考え方を引き継いではいけないよ。

『献灯使』


物語では迷惑という考えかたが古いものとなり、子どもたち世代には「悲観しない」という能力が備わっていた。冬子は自分も悲観しないほうだと思っていたが、母の病気をはじめ、どうにもならないことというのはやはり悲しく、沈みこむような気持ちになった。でも悲観することが悪いこととは思わない。ひとりの時に吐きだすように悲しんで、母や父の前では落ちついていたい。きのうの冬子は落ちつきを見失い、逃げるように帰ってきてしまった。

母が病気になってから、冬子は実家の片づけを始めた。あぶない場所をなくし、物をへらせば、母の家事の負担が少なくなるのではと考えた。実際、冬子も五年前に持ち物を見直し、生活全般がわかりやすく楽になった。

それではと、キッチンの吊り戸棚を見せてもらうとぎっしり物が詰まっている。少ないもので暮らす冬子は一瞬ひるんだが、使う物だけ残せばかなりすっきりしそうだと思った。

しかし、吊り戸棚から出されたものはほとんどなかった。地震で落ちてわれる可能性がある大きな耐熱ガラスのボウルふたつと百閒が使うかもしれない弁当箱、やたら握力がいる粉ふるいが出された。

しっかりした紙箱からは、冬子が小学生のころ母がよく焼いてくれたクッキーの型がわんさか出てきた。ビンにいっぱい入ったかぼちゃクッキーのうす甘い味や歯に少しくっつくような食感をありありと思いだす。

あらゆる製菓道具、おせちの重箱、みんなで鍋をする時の大鍋。はじめのうち、冬子はまだ使う?最後に使ったのはいつ頃?など、手放すきっかけになるような声がけをしていたが、途中から言うのをやめた。

最後に使ったのが冬子が小学生の頃だろうと、大きくて重くて母の細くなった腕では持ち上げられなそうな大鍋だろうと、それらは母の思い出なのだ。写真や手紙と同じように扱ったほうがいいような気がした。

あと母は、また作るから、と何度も言った。片づけでは過去への執着と未来への不安が物を手放しにくくする、というのがあるが、母にとってまた作るかもしれない、作れるかもしれないと思うことは希望そのものだった。奪ってはいけない。

その後、強い腹痛がやってきて座りこんでしまった母を見ていられず、また来ます、と言って逃げるように家を出た。なにかを埋めるように駅前の店に入ると、サクサクのまいたけの天ぷらに塩をつけてかじり、うどんをすする。布団を敷いてくればよかった。役立たず。おいしいはずのものと苦いものをいっしょにすすりこむ。

今できることは、曾孫といっしょに生きることだけだった。そのためにはしなやかな頭と身体が必要だ。これまで百年以上も正しいと信じていたことをも疑えるような勇気を持たなければいけない。

『献灯使』


物の数が少なくなると生活が劇的に楽になり、冬子はもう戻れないが、母には母の暮らしがある。自分の知っていることを当てはめて、どうにかしようとするのは傲慢でしかない。気づけてよかった。

今できることは母が少しでも心地よく毎日を過ごせるよう考えること。母が望んだら、しまってある物を全部だして、棚や引きだしをきれいに拭きあげるのもいい。長い時間眠っていた物たちは冬子によって起こされ、母によってそれぞれの物語を話しはじめるだろう。家もぴかぴかになるし、母といっしょに過ごすのに、なかなかいい思いつきではないかと思った。






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