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Zeitverschiebung 時差

まだコーヒーが飲めるだろうか、と時計をみると14時46分だった。ということは、香港は13時46分、パリは6時46分。冬子はふと、行ったことのある国の時間をおもうときがある。

香港について思い出せることは少ない。ウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』の撮影場所に行った。夜、屋台で食べようとスケッチブックにそれらしきものを描くと、エビの素揚げがでてきた。「おやつはカール」に毛が生えたような絵はどこかに消えた。一緒に行った友人は結婚してからずっと韓国で暮らしている。

パリはバイト先のひとと行った。そのひとが一緒にいく予定だった人が妊娠したため、冬子に声がかかった。

ハムとチーズをはさんだだけのバゲットサンドが忘れられない。冬子がそれから二十年以上じりじりとフランスを思い続けるのも、空気や雰囲気に味があることを知ってしまったからだった。

あとは蚤の市がたつ早朝、白い息をはきながら石畳のうえを足早に歩いた。若いころの旅の思い出は年々改ざんされている。それで十分だった。


多和田葉子『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』を読む。先日読んだ、ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』と共通する言語をめぐる話だが、またちがう質感がよい。

過去にどのような町に住み、どのような人たちとどのような会話を交わしながら生きてきたか、ということは、その人が今話す言葉の中に記憶されている。(中略)
なまりは個の記憶なのである。

多和田葉子『エクソフォニー』


冬子は母の実家である大阪で生まれ、ひと月後、東京に戻る。小五から大人になるまで神奈川で暮らし、二十四で実家を出る。

小さなパン屋で働いていたとき、包んだパンを渡そうとすると「あなた、大阪のひと?」とベリーショートの中年女性客にいわれ、たいそう驚いた。冬子が大阪に行っていたのはたしか小学生までで、母もすっかり東京の人のように話していたからだ。

ぱっと聞いたかんじわからないけど、語尾がちょっとだけ気になったのよ、とその人はいった。夫が関西の人だった。

冬子にとってそれは、ほんの一滴しか入れていない調味料をいいあてられたような体験だった。とても耳がいいのだろうと思う。


この三角形は額縁のようなものだと思う。そしてこの額縁にはわたしの自画像が収められているのだと思う。

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』


両親が話していたベンガル語、アメリカで生き残るための英語、自分で選んだイタリア語、で彼女の三角形はつくられる。家で英語を話すと怒られ、学校ではだれも英語以外に興味をしめさない。彼女は二つの言語をいったりきたりすることで混乱していた。大人になってから取りいれたイタリア語も自分の情熱にかかっている。額縁はぐにゃぐにゃと不安定に動きつづけ、自画像は揺れたり、歪んだりする。


冬子自身は「なまり」に対していいイメージをもつ。個の記憶、と多和田さんが書くように、その人にしかない特有さが感じられるところがいい。自分にはなく、いやな思いをしたことがないのも大きい。ジュンパ・ラヒリの両親の英語は外国訛りがあり、彼女からは常に不利な立場にあるように見えたそうだ。冬子は自分に「なまり」はないと思っていたが、耳のいい人にはばれている。さらに発音だけではなく、「思想のナマリ」も重要ということだった。

あわせなくていい、なおさなくていい、わが道をゆけ、ということか。「zeitverschiebung(時差)」はとても美しい言葉、と多和田さんが書いていて、冬子もそのままそう思ってしまう。気になるひとがうつくしいといえば、思考停止のようにうつくしいと感じてしまう。「個」をかさねていくのも「なまり」をなくさないようにするのも、本当にそう思う?と自分にたずねつづけるしかない。

コーヒーを飲みおわると15時になっていた。パリは7時、パン屋がオープンする時間だ。ぱちぱちぱち。焼きたてのバゲットのあの愉快な音。久しぶりに記憶から再生したその音に、冬子はいてもたってもいられなくなった。





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