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物欲の化け物。

今の体温 36.1

(グダグダの愚痴です。読む価値ありません)

うちの母はモノが捨てられない。病気の域だと思う。
家の中はモノだらけでまっすぐに歩ける場所がない。和室はモノで埋め尽くされて湿気が溜まり、畳が腐って床が落ちた。私は苦労して和室から荷物を移動させ、ようやく床が見える状態にした。
この人は「家に住めなくなるよ」と何度言っても何もしなかったし、今も何もしない。
腐り落ちた床に、解体したタンスの扉を敷いてその上を歩いている。
家よりもモノのほうが大事らしい。
モノが家をダメにして、家がさらにダメになったらモノどころじゃないというあたりまえの流れがまったく見えていない。

もともとこの人はいろんな狂気を秘めていて、問題はモノが捨てられないことばかりではない。
草笛光子に似たそこそこの美老婆なのに、茶飲み友達の1人もいない。
ときどき連絡が来るのは十代の頃の同級生ばかり。
異常性がバレる前か、発露する前だったのかもしれない。

まあそこは置いといて。
彼女の生活理念の根底にあるものは1つ。

使えるものを捨てるのはもったいない。

これは私もわかる。「捨てる」のはもったいない。
だから私は捨てずに処分する方法をいくつも見つけた。
売る、譲る、寄付する。
処分を私に任せれば「捨てない」ことを彼女は知っている。
したがって本当の願望は、

一度所有したモノを手放したくない

という物欲に他ならない。
美しいから、でも、ときめくから、でもない。

一昨年ぐらいまで私は積極的に母の不要な食器類を処分しようと努めていた。食器棚や戸棚に、価値のないガラクタがたくさん詰め込まれて、価値あるものが日の目を見ないからである。
お盆一つとっても10枚以上ある。半分を処分しても全く困らないはず。なのに、不要なものはどれかと聞くと「すべて必要」と言うのだ。
必要ないけど手放したくない、の間違いだがこの人に理解できる日は来ないだろう。

ある日、実家に帰った時に、誰も欲しくなさそうなガラクタレベルのモノばかり箱に集めて「これ持って行くから」と言ったところ、案の定抵抗してきた。

「でけん。イヤよ。要るよ」
「ああ、そう。じゃあ置いていくから好きにして」
「何ね、すぐ大声出して、キチガイ!」

この会話、おかしくないですか。イヤだと言うから意思を尊重したのに怒っていて理解不能。こっちが折れて言い分を受け入れたのに、その評価が「キチガイ」である。むしろ大人の寛容な対応ですよね。うわああとか絶叫して食器を床に投げつけたりした時に「キチガイ」と評してほしいです。
この人の望む展開は、私が1つ1つ、これはああで、こうで、だから要らないでしょ、と教えて、

「でも、これは新品よ」
「銘も入ってないし、安物だよ。色も変わってるよ」
「じゃあしょうがないか。モノが多すぎるもんね・・・」

等とひとしきりやりとりすることだったと思われる。実際そういう流れになることは多い。
ガラクタは山ほどあるのに、何万回こんな茶番をしたいわけ。
まともな話ならともかく、ガラクタのために費やしてる時間だよ?
私はあんたがゴミを捨てるのに納得するために遣わされた天使じゃないんだ。私の時間は限られている。冗談じゃない。

母はおそらく、やりとりをシャットアウトされたことに反発しているのだ。自分が最初に私の提案を拒否して不快な思いをさせたことは気にもとめていない。しかし、自分の不愉快さだけには敏感なのだ。
大きな声になったのは、この人がとんでもなく耳が遠いからである。
大声出したおかげで聞こえたのだ。自分がどれだけ機能不全かわかってない。そして、キチガイは間違いなくおまえだろ。

これが私なら「いい値段で売ってね。よろしく」と頼むだろう。
寝転がっているだけでガラクタを選別して運んで行ってくれて、有益に処分してもらえるのに、文句言う理由がどこにあるの。
この人はきっとガラクタの中でガラクタを抱いて死ぬことになる。10年もすれば確実にその日はくる。そうならないよう心を砕いているのに、何もわかっていない。
先日も腹がたったので、「じゃああなたが死んだらお棺に大事なガラクタ入れてあげるから、お棺に入る分だけにまとめといて」と言っておいた。
忘れるかもしれないのでお棺のサイズも紙に書いて渡すか。

きれいな食器をたくさん所有しているにも関わらず、この人はプリンの入っていたカップやヨーグルトの容器を食器や小物入れとして使用する。
理由は、

きれいなものを使うのはもったいないから。

呆れてしまって「使わないで死ぬことがもったいない」「食事なんてこれから何度できるかわからないのに、素敵なものを使わずにいいかげんなもので済ますなんて、それだけで毎回損をしている」と何度か諭したのだが、

それはわかるけど、もったいない。

と言われて脱力した。普通の人ならここで目がさめて「そうだ、もったいないことをしている」と気が付く。
思わなくても、私の熱意に何か感じるものがあるはずだ。

そもそも、娘と対立までしてプリンの空き容器を使う必要がどこにある。

この人は決して目がさめないのだ。異常者である。
持ってないものをわざわざ買って使えとは言わない。すでに美しい食器をたくさん持っていて、無駄になっているから、自分の生活を素敵にするために使えばいいと言っているのに、しない。理由は「もったいない」から。
あんたは囚人か奴隷なのか。自分で自分に虐待しているレベル。私にネグレクトしたように。
この人の非合理的なロジックに接するたびに私は気が狂いそうになる。

前半の「それはわかるけど」がすでにウソである。「わかって」いない。
死蔵される食器もかわいそうだ。他の人が買っていればご馳走を乗せてもらって、そのたびに「きれい」「素敵」と褒めてもらえたのに。
うちにきたばかりに飼い殺し。気の毒でならない。

病気もせずにいることはありがたいが、その健康も体力も無駄になっている。テレビを見るだけで消費されている。一般的に、いいトシした婆さんは身ぎれいにして、漬物を漬けたり、こまめに掃除したり、裁縫したり、趣味のよい食事を作ったりするじゃん。そうであってほしいじゃん。
なのにこの人は家中をモノで埋め尽くし、家を腐らせ、何度言っても服の一枚も整理できない。
私が注意すると「まだそこまで行っていない」と言うのだけれど、かれこれ20年ぐらい同じことを言っているので、一生そこまで行けないのだと思う。まず立ち上がって「そこ」に向かわないと行けるわけがない。

この人は何のために生きてるんだろうとよく思う。生きる手本にもならないし、「こんなふうになるなら長生きする意味はない」と絶望する。

こっちは時間がない中で立ち寄った時に必死でモノを減らしたりまとめたり片づけたりしたりしているのに、自分は涼しい顔で座っている。見に来て「あれは要る」「これは要る」と言われたら邪魔だから、いないほうがいいんだけど、自分でまとめて「コレ処分してね」と言う日がいつ来るのか、、、来ないんだろうなと思うとほんとうにやりきれない。

物欲の化け物。

つらい毎日の記録