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子どもの可能性を信じる社会、に賛成

為末大氏がFacebook(公開記事)で、体操選手が飲酒喫煙が発覚し五輪を辞退した件を機に、10代の子どもたちが問題を起こした時に、子どもの可能性を信じる社会の方が良いと思っている、と語っていました。
為末氏の投稿全文には、彼自身の「変われる」という体験の披露もありました。
彼の主張は私にとってはとても説得力がありました。

私は三つの観点から、これを機に、十代の子供たちが問題を起こした時に、叱りながら、愛を持って支える社会を作っていくべきだと思っています。
一つ目はルールの運用は機械的でない方がいい、点です。
(中略)
ルールを厳密に運用する社会は、全ての行為を監視し、機械的に処分することになるだろうと思っています。技術的にはすでに可能です。
(中略)
二つ目は、十代の脳は大人とは違うという点です。
(中略)
10代は馬鹿げたことをします。それは、感情を司る大脳辺縁系の急速な発達に、判断と制御を司る皮質の発達が追いつかず、そのアンバランスさが特有の問題行動を引き起こしているからです。
(中略)
言い換えれば十代は失敗をし、学ぶ世代です。何度も失敗するのであれば、問題かもしれませんが、たった一度の失敗で、学校を辞めさせられたり、夢を諦めたり、試合に出られなくしてもいいのでしょうか。私は学ぶ機会にできるように大人が促すべきだと思っています。
三つ目に、個人的な体験から人は変われると信じているからです。
(中略)
一人でも信じてくれる大人がいれば子供たちは変われると思います。
(中略)
十代は不安定です。馬鹿げたこともするし、先も見えていない。でも、大人は皆十代の時期を過ごしてきました。
子供たちの問題にフォーカスするより、可能性を信じる社会の方が私は良いと思っています。

https://www.facebook.com/share/p/Rzf7EvR99mp2nLTG/?mibextid=WC7FNe

その後、「ルールはルールなんだから辞退は仕方ない」といった意見が多かったようで、為末氏はさらに以下のような投稿をしています。

ルールはルールなのか、ルールは柔軟に対応すべきなのかの前に、ルールを適切に適用する場合の原則二つを理解する必要があります。これが理解できないままルールの議論をしても意味がありません。
・行き過ぎたバスケット条項ではない
・罪刑法定主義である

バスケット条項は主にインサイダーの際に用いられるものだそうです。法令などの条文として明確に表現しきれないようなものを包括的に拾い上げる機能を果たす条項になります。
これは拡大解釈すると、「その他」ともいえます。例えば
「スポーツマンシップに反する行為を行った場合、相応のペナルティがある」
この問題点は、スポーツマンシップに反する行為が明確ではない点です。さらにそれに対してのペナルティも明確ではない。
誰がそれはスポーツマンシップに反すると決めるのか。スポーツマンシップの定義は何か。恣意的にいくらでも解釈の幅があります。実際にスポーツ界では、スポーツマンシップに反するという理由で多くの選手が明確ではない理由で処罰されてきました。(以下略)

https://www.facebook.com/share/p/X3WBATjAnwFKLvpN/

人を信じ切ること

「子どもの可能性を信じる」って、子どもが乳幼児のときはいちいち「すごい!」って感動できて難なく信じることができるのに、子どもがティーンエイジャーとなると確かに難しくなりますね。。。
子どもの自己主張や反抗心に直面するし、何かと高望みしてしまうし。。。

為末氏は『10代の脳』という子育て経験もある脳科学者の著作を紹介しつつ、子どもの反抗期やばかげた行動には、脳の成長過程が影響していることを指摘しています。
そうなんだ、脳なんだ、と思えると、もう少し自分の子どもや若者を温かい眼差しで見ることができそうです。

私自身は、人間の可能性を徹底的に信じるという姿勢を、故・三宅なほみ先生から学びました。三宅先生と直接お話しする機会は数回程度でしたが、その数回の機会において、先生が「信じきっている」その揺るぎなさに圧倒されました。また、そのすがすがしさに、つい「私も信じる路線で行こう!」と勝手に乗せられたものです。

「らしさ」を理由に断じないこと

「スポーツマンシップに反する」といった類の主張は、「◯◯らしくないのでダメ」といった主張と同じような型だと感じました。
「子どもらしくないからダメ」「学生らしくないからダメ」としか言えない、それ以上の具体的な根拠がない断じ方って、結局よく使ってしまうなあ、と我ながら反省しました。
「子どもらしい」とか「学生らしい」って、誰が何を根拠にどんな権利があって決めてるの??ってことですね。。。
「らしくない」って勝手に気まずさや不安を感じているのは、当事者でなく自分のような周りの者ですね。。。

派手に転んでも、「そんなこともあるよ」と過去は流して、今に集中して伴走したい

ばかばかしい話なのですが、ちょうど子どもが小学生のときに、2020東京オリンピックのマスコットを、3種の候補から全国の小学生の投票で選ぶというイベントがありました。

https://www.koho.metro.tokyo.lg.jp/2018/01/12.html

ちょうど学校の参観日があって、学校の玄関にこの候補のポスターが貼られていました。
子供達も親もみんなでわいわい、どれがいい?なんて話していました。
私は「ウ」かなあ、と思ったのですが、自分の子どももその友達も圧倒的に「アがいい!!!」と言っていました。
で、そのとき私は「これはもう、自分の感性の時代ではない。アを選ぶ次世代の感性の時代に入ったのだ」と大げさにも感じ、これからは若者の判断についていこうと誓いました。
そしてその後、全国投票の結果、アが選ばれ、名前も「ミライトワ」「ソメイティ」に決まりましたね。

ばかばかしい話なのですが、私はこの投票を通じて、次世代を担う若い世代に、なるべくのびのびをしてほしいし、のびのびして大こけしても、「そんなこともあるよね」と流して、すぐ忘れてあげて、それよりは立ち上がる「今」に集中することに手助けできる大人になりたい、と思ったのでした。

そんなばかばかしい誓いを、為末氏のfacebook投稿を見て久々に思い出したので、記してみました。

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