子どもの可能性を信じる社会、に賛成
為末大氏がFacebook(公開記事)で、体操選手が飲酒喫煙が発覚し五輪を辞退した件を機に、10代の子どもたちが問題を起こした時に、子どもの可能性を信じる社会の方が良いと思っている、と語っていました。
為末氏の投稿全文には、彼自身の「変われる」という体験の披露もありました。
彼の主張は私にとってはとても説得力がありました。
その後、「ルールはルールなんだから辞退は仕方ない」といった意見が多かったようで、為末氏はさらに以下のような投稿をしています。
人を信じ切ること
「子どもの可能性を信じる」って、子どもが乳幼児のときはいちいち「すごい!」って感動できて難なく信じることができるのに、子どもがティーンエイジャーとなると確かに難しくなりますね。。。
子どもの自己主張や反抗心に直面するし、何かと高望みしてしまうし。。。
為末氏は『10代の脳』という子育て経験もある脳科学者の著作を紹介しつつ、子どもの反抗期やばかげた行動には、脳の成長過程が影響していることを指摘しています。
そうなんだ、脳なんだ、と思えると、もう少し自分の子どもや若者を温かい眼差しで見ることができそうです。
私自身は、人間の可能性を徹底的に信じるという姿勢を、故・三宅なほみ先生から学びました。三宅先生と直接お話しする機会は数回程度でしたが、その数回の機会において、先生が「信じきっている」その揺るぎなさに圧倒されました。また、そのすがすがしさに、つい「私も信じる路線で行こう!」と勝手に乗せられたものです。
「らしさ」を理由に断じないこと
「スポーツマンシップに反する」といった類の主張は、「◯◯らしくないのでダメ」といった主張と同じような型だと感じました。
「子どもらしくないからダメ」「学生らしくないからダメ」としか言えない、それ以上の具体的な根拠がない断じ方って、結局よく使ってしまうなあ、と我ながら反省しました。
「子どもらしい」とか「学生らしい」って、誰が何を根拠にどんな権利があって決めてるの??ってことですね。。。
「らしくない」って勝手に気まずさや不安を感じているのは、当事者でなく自分のような周りの者ですね。。。
派手に転んでも、「そんなこともあるよ」と過去は流して、今に集中して伴走したい
ばかばかしい話なのですが、ちょうど子どもが小学生のときに、2020東京オリンピックのマスコットを、3種の候補から全国の小学生の投票で選ぶというイベントがありました。
ちょうど学校の参観日があって、学校の玄関にこの候補のポスターが貼られていました。
子供達も親もみんなでわいわい、どれがいい?なんて話していました。
私は「ウ」かなあ、と思ったのですが、自分の子どももその友達も圧倒的に「アがいい!!!」と言っていました。
で、そのとき私は「これはもう、自分の感性の時代ではない。アを選ぶ次世代の感性の時代に入ったのだ」と大げさにも感じ、これからは若者の判断についていこうと誓いました。
そしてその後、全国投票の結果、アが選ばれ、名前も「ミライトワ」「ソメイティ」に決まりましたね。
ばかばかしい話なのですが、私はこの投票を通じて、次世代を担う若い世代に、なるべくのびのびをしてほしいし、のびのびして大こけしても、「そんなこともあるよね」と流して、すぐ忘れてあげて、それよりは立ち上がる「今」に集中することに手助けできる大人になりたい、と思ったのでした。
そんなばかばかしい誓いを、為末氏のfacebook投稿を見て久々に思い出したので、記してみました。
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