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2023年夏:コロナ後の欧州旅行;(その4)子どもがオルセー美術館で女性裸体作品を一瞥して「もうイヤ」となった件

2023年8月に欧州2都市(ベルリン、パリ)へ家族旅行しました。
計12日程の個人旅行での気づきをメモしておきます。

気づきの第四弾として、標題のとおりなのですが、子どもがオルセー美術館で女性裸体作品を一瞥して「もうイヤ」となり鑑賞意欲が失われた件について、自分としてかなり印象深かったので備忘録的に記します。

【注意点】旅行者である私は、2000年代に欧州在住経験が2年あります。英語とフランス語が日常会話程度にはできます。海外個人旅行の経験がありますが、今回の家族での海外旅行は2013年頃以来で、コロナ後では初めてです。
家族には思春期の子どもが含まれます。
今回の旅行は、ゆるっと観光地を回ったり、街のスーパーマーケットやドラッグストアを回ったり、といった感じのものでした。


モネの「草上の昼食」

オルセーの鑑賞スペースは、5階、2階、0階という3フロアに分かれています。今回は、日本の教科書にも載っているだろう印象派の絵が集結している5階から順に下の階へ向かおう、という私の判断の下、朝一に入館してエスカレーターで5階に上がり、下の地図28番から順に回りました。

オルセー美術館5階の見取り図 
(オルセー美術館ウェブサイトより 
https://www.musee-orsay.fr/themes/custom/orsay/images/map/105.png )

実質的に絵画の展示は29番の部屋から始まるのですが、この29番に、かの有名なマネの「草上の昼食」が展示されていました。

エドガー・マネ「草上の昼食」(1863) 
(オルセー美術館ウェブサイトより
 https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/le-dejeuner-sur-lherbe-904 )

で、同行した子どもが、この絵を一瞥するなり目を背け、以後、どの絵も見ることなく足早に部屋を通り抜けていってしまいました。
私は呑気に「教科書にも載ってるはずの有名な絵だよ!見ようよ!」と言ってみたのですが、子ども曰く「いいよ、裸だし」と、明らかに嫌悪感をいだいており、この絵のせいで急速に鑑賞意欲を失ったようでした。。。

親としては非常にショックな展開でした。つまり、超有名な絵が集結しているオルセー美術館のチケットを事前予約して、朝一に出かけて、イヤホンガイドも借りて、無事に空いている時間帯に入館できて、さあ、がっつり絵画鑑賞しよう、という入り口で、
見せようと思った子どもに「裸の絵があったから絵はもう見ない」と言われて、これまでの準備がパーだ、泣、という心境でした。

ただ、その瞬間にも「確かに子どもの言うとおり、この絵、女性だけ真っ裸で超不自然だし、思春期の子どもが女性の真っ裸の絵に拒否反応を示すのも当然というか自然だしなあ。」とも思いました。
なので、このことを今も覚えていて、こうしてnoteに記している次第です。

オランピアも有名

オルセー美術館所蔵でマネ作のもう一つ有名な裸体が描かれている作品と言えば、「オランピア」でしょう。
これは0階に展示されています。もちろん今回は上記の経緯があったので、鑑賞に至りませんでした涙。

エドカー・マネ「オランピア」(1863)
(オルセー美術館ウェブサイトより
https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/olympia-712 )

このほか、私が子どもにも見てほしいと思っていた美しい裸婦像として、アングルの「泉」というのも2階にあったはずなのですが、これももちろん鑑賞には至りませんでした。

ドミニク・アングル「泉」(1856)
(オルセー美術館ウェブサイトより
https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/la-source-525 )

で、今回、女性の全裸をアートとしてなのか美しいからなのか鑑賞するというのは、確かに何か変なのかもしれない、と思い、つらつら検索してみました。

美術・アートにおける「裸体」の位置づけ:歴史があるみたい

美術・アートにおける「裸体」の位置づけには歴史的経緯があるらしいことが分かりました。
↓この、ちいさな美術の学芸員様のnoteが非常に分かりやすかったので、引用させていただきます。

我が家の子どもが嫌悪を示したマネの「草上の昼食」は、それまで「神話画」として描くことが許されてきた女性の裸体を、世俗画に持ち込み人間としての裸体を描いたということで物議を醸した、という作品のようです。(私の理解が間違っていたらすみません)

このマネ辺りの事件以降、人間としての裸体(特に女性?)が芸術として受け入れられる/認められる、ということになるようですが、ちいさな美術館の学芸員様が最後に書いておられるとおり、「芸術なのか猥褻なのか」については、いつの時代でも線引きが難しいのかな、という印象を私は持ちました。

ルーブルでも「ミロのビーナス」には嫌悪感

さて、パリではルーブル美術館にも行きましたが、こちらは予約に失敗して入場がが閉館1時間前となってしまい、本当に「かけ足」して、以下の5作品だけ鑑賞しました。
 ・モナリザ
 ・ミロのビーナス
 ・サモトラケのニケ
 ・皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠
 ・ハンムラビ法典
(・子どものリクエストによりアルチンボルド作「連作『四季』」を走って探したのですが見つけられませんでした涙。)

ルーブルでも「ミロのビーナス」は子どもはガン無視で泣、背後からちょっと見るだけでした。それでも「お尻が出てる」と嫌悪感を表明。。。確かに。

ミロのヴィーナス
(ルーブル美術館コレクションウェブサイトより
https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010277627)

時代と文化の違い、猥褻の視点とジェンダーの視点

こうした「裸体」に対する嫌悪感というのはもちろん主観的なものですが、主観を抱く主体(今回の場合は私と子ども)の生きてきた歴史、そこで育まれた価値観により、主体ごとに主観が異なってくるのかな、と思いました。

時代と文化の違いという点では、黒田清輝が1893年にフランスで『朝妝』という裸婦像を描き、これを日本に持ち込んで物議を醸したということを今回検索して初めて知りました。

また、ドイツなどの西欧では、性的目的ではないヌードは「人間の自然のままの姿」ということで一律に猥褻とは扱わない、ということも知りました。
確かに、ヌーディストビーチがあるとか聞きますし、ベルリンに行ったときには混浴のスパが流行っていると聞きました。
↓このニケ様のnoteが分かりやすかったので引用させていただきます。

検索したところ、芸術における裸体論についてはいろいろ論じられているようです。レファレンスサービスにも質問が寄せられているようです。

中でも、ケネス・クラーク著の『ザ・ヌードー裸体芸術論・理想的形態の研究』が必読書のようです。
↓この渋澤龍彦氏の書評では、自然の裸ではなく「裸体像」は、芸術の一形式である、と著者が述べている書かれていました。

著者はまず、「はだか」the nakedと「裸体像」nudeの区別から始め、単なる肉体的自然としての「はだか」と、「再構成された肉体のイメージ」としての「裸体像」とが、明らかに異なるものであることを示す。著者によれば、裸体像とは「理念」であり、「芸術の主題ではなく芸術の一形式」であり、「模倣ではなく完成を望むもの」なのである。


今回の、私と子どもの主観の差は、「美術」に関する学習や経験の差もさることながら、やはり「ジェンダー」についての感覚の世代差が大きいように感じます。

子ども世代は自分世代とは全く比較にならないくらい、LGBTQの認知度も高く、性に関する多様な価値観を尊重する姿勢があると思います。そのため、固定的・一方的な「女性」性を求めるような、例えば「裸体」の公衆への提示に対しては嫌悪感を示すのかな、と感じました。

子どもの思春期が終わって成人になったら、あのときオルセー美術館で裸体をガン無視してたけど、と語りかけてみたいと思います。


ちなみに、子どもはオルセーでその後、2階の彫刻エリアでフランソワ・ポンポンのクマの像を見て和み、

フランソワ・ポンポン「白熊」(1923-1933)
オルセー美術館ウェブサイトより
https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/ours-blanc-15496 )

また、私がお勧めした(4階だったかな??)アール・ヌーボーの家具の展示を眺めてまた少し機嫌を直し、
(↓このブログが雰囲気が分かりやすいので引用させていただきます)

最後にミュージアムショップで白熊のキーホルダーを見つけてお土産として購入し、機嫌を直して美術館をあとにすることができました。めでたしめでたし。


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