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『モモ』から学ぶ、生きることの本質

こんにちは、"_dawn_"です。
私の投稿に興味を持ってくださり、ありがとうございます。最近、人生観を見直すキッカケとなるような素晴らしい一冊に出会いました。
ミヒャエル・エンデ著の『モモ』です。

本書は児童文学でありながら、「時間とは何か」という、大人こそ読みたい深いテーマ性を持つ不朽の名作です。あらすじは以下。

主人公モモは、町はずれの円形劇場の廃墟に住みついた、みすぼらしい身なりの少女。彼女は人の話を聞く特別な力があり、周囲の人たちはその不思議な力に助けられ、充実した暮らしを送ります。

そこに人間から時間を盗もうとする「灰色の男たち」が静かに迫ります。彼らの暗躍で次第に心のゆとりを失っていく町の人びとや友だち。皆の奪われた時間を取り返すため、モモは灰色の男たちに立ち向かう─ 。

灰色の男たちに立ち向かうモモというファンタジー要素と、温かみのあるキャラクター達による童話の雰囲気、「時間」という概念の美しい描写が魅力の本書。今回は、この作品で私が感じたことを書いていこうと思います。


「時間」とはいったい何か?

「時間」とは生きることそのもの

時間とは何か、作中にある象徴的な表現を引用します。

時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。
なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。

『モモ』より、第6章 インチキで人をまるめこむ計算

時間とは生きる上で何かしらのために使う資源のように捉えられます。ですが、本書では実は時間そのものが生きることであるとされています。この考え方は、何となく共感できる方も多いのではないでしょうか。

そして、「人のいのちは心を住みかとしている」という表現は、生きることとは「その瞬間瞬間において、今目の前にあるものに対する自分自身の感情の動きを感じとること」と考えられます。逆に、感情の動きに注目できていない状態は、いのちが住みかを失っている訳ですから、生きていないのと同義ということになります。

「時間の花」に表現される生きることの本質

作中で描かれる「時間の花」。繊細さと美しさをもって描写されています。私はこれを、生きる中での感情の動く体験の一つ一つだと解釈しました。そう感じた描写を引用します。

新しく咲くはどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。

『モモ』より、第12章 モモ、時間の国につく

つまり、人生において一つとして同じ体験はなく、それぞれが最も素晴らしい体験になり得る。繰り返されるような同じ出来事でも、それに伴う感情は異なり得る。生きている中で体験する出来事の本質を、「時間の花」が表現しているのではないでしょうか。

「灰色の男たち」とは何者なのか?

そんな「時間の花」を根こそぎ我が物にしようと企むのが「灰色の男たち」です。

今この瞬間から目を背けさせる欲望

私は、「灰色の男たち」は人間の「欲望」を表していると解釈しました。欲望とは、何かを欲すること。今を不足なものとして、それを補うために何かを得ようとすること。今を不足と捉えるということは、今目の前にあるものに満足しておらず、それを大切に思う気持ちが薄れてしまっていることと考えられます。

欲望を煽られた町の人びと

「灰色の男たち」に象徴される「欲望」がやっかいなのは、それが第三者によって生み出されたものだということです。健全な向上心や人とのつながりを求める気持ちではなく、他人から「これが欲しいんだろう」と煽られ、植え付けられたものなのです。以下、灰色の男のセリフです。

「人生でだいじなことはひとつしかない。」男はつづけました。「それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ。ほかの人より成功し、えらくなり、金もちになった人間には、そのほかのもの──友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものはなにもかも、ひとりでにあつまってくるものだ。きみはさっき、友だちがすきだと言ったね。ひとつそのことを、冷静に考えてみようじゃないか。」

『モモ』より、第7章 友だちの訪問と敵の訪問

「灰色の男たち」によって煽られた結果、町の人々は量的な幸せや効率性を追い求め、心の動きに注意を払えなくなっていきます。

フージーは将来の漠然とした「ちゃんとした暮らし」を、ニノは店の繁盛と成功を、ジジは夢にまで見ていたはずの富と名声を煽られ、かえって苦しい生活を送ります。今この瞬間を大事にしていたベッポですら、モモを人質に取られたために、心を亡くして仕事をしてしまいました。皆、現在の不足を煽られて、感情の動きを大切にできなくなってしまっていったのです。

それとは対照的に、ビビガール人形に興味を示さなかったモモや、大人に施設に連れ込まれるまで「今この瞬間を楽しむこと」ができていた子供たちが、純粋に生きている者として描かれています。彼らに対しては、灰色の男たちも直接影響を与えることはできませんでました。

目の前にあるものに、一瞬一瞬の感情の動く体験に、感謝する

本作を通して、私は「今あるものに感謝しよう」というメッセージを受け取りました。一般によく言われるようなことですし、これに同意しない人は少ないでしょう。ですが、その本当の意味までじっくり考えたことがある人もまた、少ないのではないでしょうか。かくいう私も、この本を読むことでハッとさせられました。

時間とは、生きるということ、そのもの
そして人のいのちは心を住みかとしている

だとすると、今この瞬間の、感情の動く体験一つ一つが生きるということであり、それを感じさせてくれるもののおかげで、私たちの人生が成り立っていると言えます。その関係性を表すかのような描写が、以下の一節から読み取れました。

この鳴りひびく光こそが、どれとして同じもののないあの類なくうつくしい花のひとつひとつを、くらい水底から呼び出して形を与えているのではないでしょうか。

『モモ』より、第12章 モモ、時間の国につく

私たちは、目の前の出来事や人とのつながり(=鳴りひびく光)によって自分の感情が動される体験をします。それが「時間の花」です。だからこそ、それを意識できたときに、はじめて本当の意味で目の前にあるものや「今、ここ」に対して感謝できるのではないでしょうか。

逆に、その感情の動きに注意を向けられていないのなら、自分の人生を生きられていないということになります。未来という、現実ではない世界で何かを得ることに注意が向き、目の前にあるものや「今、ここ」に集中できていないということです。

目の前のことでいっぱいいっぱいのとき。何かを得ることに執着してしまっているとき。そのせいで今この瞬間の自分の感情に鈍感になってしまっているのなら。それは、灰色の男たちに時間どろぼうされているのかもしれません。

最後に。

『モモ』は児童文学でありながら、大人こそ読みたい深いテーマ性があります。そのためか、本書の対象年齢は「小学校5・6年以上」とされています。
つまり、本書に込められたメッセージは、私たち大人にも向けられたものでもあるのです。ぜひ、本書に興味が湧きましたら、一度読んでみてもらえたらと思います。あなたも私も、目の前のことや「今この瞬間」に感謝し続けられる人物でありますように。

それでは、次回の記事でお会いしましょう!ではまた!

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