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ゴルフの歴史【Ep3】ゴルフボールの進化

このシリーズではゴルフ史を紹介しています。
私の趣味翻訳です。

画像の出典は画像下に、参考資料は最下部にまとめています。

前回までのお話はこちら
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ゴルフボールの変化

ヨーロッパ北部でプレーされていた、ゴルフの原形となるスポーツであるコルフ(Colf)やパルモール(Pall Mall)では、木製のボールが使われていました。

この木製のボールは、堅材であるプナの木やツゲ材から作られ、14世紀から17世紀まで使用さていました。球体で丈夫ではあったもののリンクスのゴルファーには好まれませんでした。

ヘアリー(Hairy)1400年代後半〜1600年代初期


Scottish Golf Historyより

その後、ヘアリーと呼ばれる革のボールが現れます。おそらく、1486年〜1618年の間、オランダからスコットランドへ大量に輸入されていたのではないかと言われており、1554年にはスコットランドのエジンバラのキャンノンゲートで革職人や靴職人により製造されていた記録が残っています。

ヘアリーは特に氷上コルフで使用され、135〜150メートルほどの距離を飛ばすことができ、木製のボールよりコントロール性に優れていたんだとか。

このヘアリーは、3枚の牛革を縫い合わせた中に牛の毛や藁を詰め製造されました。革製のため水には弱いものの、リンクスの冬の乾燥した気候がボールのダメージを和らげたと言います。

16世紀初期は、1個あたり2シリング(現在の7,800円相当)、17世紀初期は1個あたり2〜5シリング(現在の2,000〜5,100円相当)で取引されていました。

ヘアリーはとても人気が高かかったため、なんと18世紀後半までの長い間、ゴルファー達に愛用されていました。

フェザリー(Feathery)1600年代初期〜1800年代中期


The Golf Museum

1600年代初期、ヘアリーの次に登場したボールが、フェザーボール(フェザリー)です。

1618年、時のスコットランド王ジェームズ6世は、ゴルフボールの購入目的で大量の金銀がオランダへ行き渡っていることに気づき、ジェームス・メルビルとウィリアム・バーウィックの2人に、21年間スコットランドでボールを製造する特許を与えたといいます。

つまり、フェザーボールはオランダからスコットランドへと広まったことが明白なのです。

フェザーボールは、ガチョウや鶏の羽毛を革で覆い縫い合わせた球状のボールで、大きさは4cmほど、重さは21gほどだったといいます。

フェザーボールは弾力性・反発性に優れ飛距離がでるため、パワーヒッターであれば200ヤードも飛ばすことができました。しかし、この時代のゴルフボール製造は、現代の大量生産とは対照的で「繊細なアート」のような職人技が必要だったといえます。

フェザリーの製造

まず、ミョウバン水に浸した牛や馬の革を3枚用意します。(円形を2枚、帯状を1枚)これらを、6mm程度の隙間を残し縫い合わせ、またミョウバン水に浸します。次にそれを裏返し、6mmの隙間から茹でた羽毛を詰め込みます。すると、これらが乾燥したとき、革は縮み羽毛は広がるため、双方フィットするという仕組みでした。仕上げにハンマーで打ち、形を整え、白い塗料で3重塗装白していました。

欠点を言うならば、完璧な球状に仕上げることが難しいため不規則に飛んでいく点や、水に弱く濡れると飛距離が大幅に落ちる点、最悪の場合、インパクトや地面に着弾した際、ボールが崩れ破けてしまう点などがありました。そのため、ゴルファーは1ラウンドで常に3〜4個のボールを携帯する必要があったそうです。

フェザーボールが使用されていた初期は、職人の手により1日に3個ほどしか生産できなかったと言われています。スコットランドの統計勘定には、1838年になると一流の職人の場合、週に50〜60個のボールを生産することができたと記述されています。

例えば、アラン・ロバートソンと弟子のトム・モリス(Ep4と5のメインキャラです)は、1840年に1,021個のボールを製造し、翌年は1,392個、1844年には2,456個のボールの生産に成功した記録が残っています。

フェザリーの価格

木製の球と比べ価格は12倍にものぼり、最高品質のフェザーボールは5シリング(現在の4,500円相当)で取引され、質の低いボールはその半値ほどでした。1620〜1848年の間、フェザーボール 1個の価格はドライバー1本の価格と同等であったため、庶民にとってはなかなか手が出ない高級品でした。

そのため、富裕層を除く人々は、ゴルフに情熱を注ぐことができなくなり、やがてゴルフの人気は一旦陰りを見せることになります。


ガティ (Gutty)1800年代中期〜1900年

The Golf Museum

人々は安価で耐候性があり、より丸く近代的な性能を持ったボールを必要としていました。そこで登場したのがガティです。1848年、ガタパーチャのゴム樹脂から作られたガティがフェザーボールの代用品として使用されるようになりました。

起源

ガタパーチャは東南アジア原産のサポジラ樹木で、樹液から得られるゴム状の樹脂はラテックスに似ています。

このガティの誕生には諸説ありますが、通説では、神学生としてセントアンドリュース大学に通っていたロバート・アダムス・パターソンが発明したといいます。

ある日、ロバートはインドで宣教師をしていた兄から小包を受け取りました。大理石でできた朝浮き彫りの仏像が送られてきたのですが、その緩衝材としてガタパーチャの塊や破片が使われていました。

今まで見たことのないような珍しい物だったので、ロバートはこのガタパーチャを温め、球状の型に流し入れ、ゴルフボールを作ろうと試みます。そして1845年に、試作品を試すためオールドコースでラウンドをしましたが、いい結果は得られませんでした。

この試みはうまく行かず、その後、ロバートはエディンバラ近くに住む三番目の兄弟にボールを送ります。兄弟がロバートに代わり意志を継ぎ試作品を作り続けました。

そして1846年、ロンドンに改良版の試作品を送りましたが、誰の興味も引くことができませんでした。その後、彼らが特許を取ることのない間に、ボール職人の手により更なる改良が加えられ、ガティはイングランド全土へと広がっていきました。

製造方法

当時、ガタパーチャはシート状で輸出されていました。ボール職人はシート状のガタパーチャをカットし、温かいお湯に浸し柔らかくし、ボール状に丸め形を整え、そして冷たい水に落とすことで素材を硬化しました。

ガティはフェザーボールに比べコストが低く、耐久性にも優れ、温かいお湯に浸すことで修復できることから人気が高まりました。

しかし、このガティは、すぐさまゴルファーに受け入れられた訳ではありません。初期のガティボールは、あまりに滑らかな表面をしていたため、空気抵抗をうまく利用できず、遠くまで飛ばないばかりかドロップさえしていました。

ガティの変化

マッセルバラ出身のプロゴルファー、ウィリー・ダンは、あまりにも飛ばないこのガティボールに嫌気がさし、ボールを自身のキャディーに譲りました。すると、彼のキャディーはプロである自分より上手く、力強くガティを打っていることに驚きました。

ここで彼は、アイアンのインパクトの衝撃で傷がつき、すり減ったボールの弾道は、新品のものとは比べ物にならないほどの弾道になると気付いたのです。

1860年ごろになると、一部のゴルファー達は、新品のガティより、使い古されたガティの方がよく飛び、操作性が高いことに気づきます。(225〜246ヤードほどの飛距離)

Scottish Golf Historyより

やがてボール職人により、ボールの表面にハンマー・ナイフ・彫刻刀などで意図的に刻み目がつけられた「次世代のガティボール」が作られるようになります。


ガティの改良はさらに進み、1890年にはボールの表面にとげ模様が加えられたブランブルボール(Bramble Ball)が生産されるようになります。これにより、滞空中やグリーンでの転がりなど全体の操作性が格段とやさしくなりました。

ゴルフブームの再来

こうして、より遠くまで飛び、より正確なパットができ、さらにフェザーボールよりも遥かに安価なボールが登場しました。

瞬く間にマレー半島の森林が大量に切り倒され、職人たちは1日あたり100個のガティを製造し始めました。

これらのボールを手に、何千人もの商人、職人、農民が再び上流階級の人々とともにリンクスでゴルフを楽しむようになりました。こうしてゴルフは労働階級にも浸透していったのです。

1890年までに、英国には387ものゴルフクラブが存在し、ゴルフコースの数は140にまで増加しました。大英帝国の植民地の影響もあり、オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・南アフリカ・スリランカ・上海・バンコク・香港・インドにもゴルフは広まっていきました。

やがて、機械化が進み大量生産が可能になると、庶民でも簡単にボールを手に入れられる時代になります。このガタバーチャボールのおかげで、陰りを見せていたゴルフブームに再び火がついたのです。

しかし、ゴルフ需要が高まる一方で、ハンドメイドのボール職人達は、この大量生産に太刀打ちできなくなって廃業を余儀なくされたことも忘れてはいけません。


ハスケル(Haskell)1898年〜

Scottish Golf Historyより

起源

1898年、アメリカ人のコバーン・ハスケルにより新しいボール、ハスケルボールが発明されました。固形ゴムの芯に、弾性があるゴム製の糸を強く巻きつけ、外部をマサランデュバの樹液でコーティングしたボールです。

オハイオ州アクロンにある、B.F.ゴールドリッチラバー社に勤めていたハスケルは、仕事で積荷の到着を待っている最中、ふと、ゴム製の糸をボールに巻き付け床に投げつけてみたところ、ボールは天井まで跳ね返ったと言います。

この出来事から1年後の1899年、ハスケルと同僚のバートラム・ワークはハスケルボールの特許を取得し、1901年にハスケルゴルフボール社を立ち上げました。彼らは1900〜2000年において世界で唯一のラバーコアボール製造権利を手にしました。後の1917年には、このハスケル社をスポルディングに売却しています。

時を同じくして、1900年にこのハスケルボールは英国にも渡ります。しかし1905年、英国でハスケルボールの特許を申請しますが、すでに1870年に類似する特許が申請されているとして棄却されてしまいます。

プロの愛用品として…

ハスケルボールが登場した当初は、ガティボールに比べ飛距離が20ヤードも伸びるものの、グリーン周りではボールが暴れすぎるため、なかなかゴルファーに受け入れられませんでした。

しかし、ウォルター・トラビスがハスケルを使用してUSアマチュアを制すると、その人気は一気に広がりました。1905年にウィリアム・テイラーによってディンプルが施されるようになり、この特許も後にスポルディングに売却されています。

ディンプル有りのハスケルボールに取って変わるように、1972年スポルディングが初の2ピースボールを発売しました。

ボビー・ジョーンズは言いました。「このボールの進化は、ゴルフ史上、最も重要な発展だった」と。彼の生きた時代を考えると頷けます。数年もたたぬ間にハスケルの人気はガティを上回りました。

そして近年のゴルフボールへ

最初のソリッドコアとカバーを持つ2ピースボールは1902年に開発されたものの、ハスケルボールと置き換えられるまで数十年もの月日がかかりました。

1967年、スポルディング社は、スラリン(Suralyn)をカバーとして使用したこの構造を考案しました。スラリンは耐摩耗性が高く、柔軟性があり、耐久性があるとされています。

それ以来、カバーやディンプルのバリエーションを持つコアの、1・2・3ピースの開発が続き、今日ではハイハンディキャップゴルファーもプロと変わらぬ条件下でプレーできるようになりました。

何ピースのボールが良いのか?どんなディンプルの模様がいいのか?と日々研究がなされています。近年では、ドライバーでは低スピンで飛距離がでて、グリーン周りではコントロール性のあるボールがゴルファーに求められています。




参考文献・サイト:

R&A

SCOTTISH GOLF HISTORY 

AGS Golf

New York Times


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