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ゴルフの歴史【Ep4】技術革新と人類初のプロゴルファー誕生

このシリーズではゴルフ史を紹介しています。
私のただの趣味翻訳です。

画像の出典は画像下に、参考資料は最下部にまとめています。

前回までのお話はこちら
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人類初のプロゴルファー

アラン・ロバートソン

ガッティが登場したことにより、ゴルフは再びブームになりました。しかし、フェザーボールの製造業者たちはこの新しいボールに反対し、特にアラン・ロバートソンという人物は激しく反発しました。

アランは、200年以上にわたるクラブやボール製造業者の末裔でありながら、世界初のプロゴルファー、コース設計者、グリーン管理者としても知られています。


アラン・ロバートとセントアンドリュース

19世紀中頃、当時のプロゴルファーの仕事と言えば、お金を賭けたり、キャディーをしたり、ボールやクラブを製造したり、ゴルフを教えることで生計を立てていました。特に、賭けゴルフでアランは無敗だったと言われています。

彼の生産したクラブやボールは世界中に輸出されたため、実はビジネスマンとしても成功を収めているんです。

わずか44歳の若さで肺炎によりこの世を去った彼ですが、亡くなる1年前、1858年にはオールドコースを80以下のスコア(79)でまわった初の人類として大記録を打ち立てたのです。


競合の出現と弟子との別れ

とは言え、当時のアランの主な収入源はフェザーボールの生産でした。1840〜50年代、新製品として売り出されたガッティの出現により、彼の生活は追い込まれ、家業は倒産の危機を迎えていました。

アランは、オールドコースの茂みから集めたガッティを買い占め、破壊し燃やしてしまったと言います。その後、自分の家族のルーツに固執した彼は、従業員に2度とガッティを使用しないよう約束させました。

オールド・トム・モリス

この出来事をきっかけに、彼の一番弟子であるオールド・トム・モリスとの間に亀裂が生じ始めます。モリスはアランとの約束を忠実に守り、6年間ガッティを使用せずにいました。

ところがある日、ガッティを使用しているところをアランに見つかってしまいます。モリスが言うには、手持ちのボールが全てなくなり、同伴者が親切にガッティを試すように勧めてくれただけだと。しかし、そのような理由ではアランを説得することは到底できませんでした。実際、その時ガッティをとても気に入ったんだとモリスは話しています。

この出来事で口論になったことをきっかけに、モリスはアランの元を去り、セントアンドリュースで初のガッティボールの店を立ち上げます。その後、プレストウィックにも店を開き、1851年にはレストウィックのグリンキーパーになるのでした。


アランの決断

これまで必死にガッティに抵抗してきたアランですが、ついにガッティに敗れます。低コストで多くのボールを生産でき、少ない労力でより利益を上げることができるという、圧倒的な利点にこれ以上目を背けることはできませんでした。皮肉なことに、このガティボールの生産によりアランは大きな富を築くことになるのでした。

そしてこの頃、実業家でもあるアランは、この新しいボール、ガッティには、新しいクラブセットが必要だといち早く気付きます。


クラブの進化

初期のゴルフクラブは、大きな進化を遂げることなく、2世紀以上に渡り使用されていた訳ですが、クラブヘッドは堅い木であるブナ、柊、なし、りんごの木で作られ、シャフトはトネリコやへーゼルウッドで作られていました。

ヘッドとシャフトを当て木で接合し、革紐やタールの塗られた麻紐でキツく巻き、柔らかいシープスキンをグリップとして巻くことでクラブを組み立てました。

当時、クラブの組み立てには莫大な時間と労力がかかるため、大衆にはなかなか手が出る代物ではありませんでした。


クラブの種類

フェザーボールの登場からおよそ200年間、ドライバーとしてロングノーズ、中距離のクラブとしてグラスドライバー、アプローチクラブとしてスプーン、ウェッジとしてニブリック、パターとしてパタークリークが使用されました。

パターも木製で、腕の立つゴルファーの中には3本ものパターを持ち歩く者もいたといいます。

というのも、当時は通常のパターに加え、ドライビングパター(低いティーから低弾道の球を打ち出すためのパター、アゲインスト対策)とアプローチパター(グリーン周りで跳ね転がして寄せるパター)がありました。

この時代のロングノーズとニブリックはとても壊れやすかったため、1ラウンドにクラブが1本壊れてしまうなんてことがよくあり、このことからもゴルフが上流階級のスポーツだったことが分かります。


クラブフェイスの素材

1840年代のラットアイアン
Old Sport Galleryより

クラブフェイスの素材にも色々な試行錯誤が重ねられます。あるクラブ職人は、革やその他の素材を使うことでインパクトのコンプレッションの改善を図りました。またある職人は、金属や骨のかけらを埋めこむことでクラブへの衝撃を抑えようとしました。そして1750年にはニブリックにフォージドメタルを使う職人もいたと言われています。

この鉄製のクラブヘッドは、フェザーボールにとって災難な存在でした。鉄製のクラブは、バンカーアイアン・ラットアイアン(わだち用)・トラックアイアン(足跡用)と呼ばれ、厳しいライからのトラブルショットに使うためのクラブでした。

大きな凹凸のあるフェイスだったり、正に悲惨なライのために作られたと言わんばかりの形をしていました。アラン・ロバートソンや当時のクラブ職人達は、クラブヘッドの製造(鍛造)は鍛冶屋に協力してもらい、クラブメーカーで鉄のヘッドと木のシャフトを接合する術を模索していたといいます。


ボールの進化

ボールがフェザーボールからガッティへと進化すると、クラブも新しいボールに対応するよう進化していきました。

ガッティはフェザーボールよりも硬く、インパクトの衝撃に十分耐えられたため、木製クラブは素材が進化し、鉄製クラブは需要が高まりました。これまでの伝統的な作りの木製クラブでガッティを打つと、クラブは歪み割れてしまうこともありました。


初期のガッティ
The Golf Museumより


クラブシャフト

時を同じくして、シャフトもアメリカから輸入されたヒッコリーなどの柔らかい木材のシャフトへと移行していきます。新しいシャフトはねじれも少なく、スイング中、強大なタメによりクラブヘッドが体の後ろに残り、降り遅れることもありませんでした。

このことから、ゴルフスイングもこれまでのフラットな横振りの払い打ちから、上下の縦ぶりで打ち込む打法へと進化していきます。


クラブヘッド

当然クラブヘッドも進化し、木製のクラブでは、より柔らかいブナ材が使用されるようになり、直接ボールを打つため、より短く・太くなりました。クラブフェイスには、インパクトの衝撃からクラブを守るため、革の端切れが差し込まれました。これによりクラブの弱点である繋ぎ部分、クラブヘッドの付け根が割れてしまうことが減りました。

一方で鉄のクラブは、もうボールの耐久性を脅かすことはありません。鉄のクラブは特にグリーンを狙うアプローチ用クラブとして好まれ使用されました。

鉄製クラブの需要拡大に伴い、スコットランドの鍛冶屋はこれまでの商いからクラブ職人「クリークメーカー」へと転身を遂げていきます。

この時代のクリークは、現代で言う2〜3番アイアンにあたります。ここから、あっという間にこのクリークにロフトが加えられ、ロフター(Lofter:現代の5〜8アイアン)、マーシー(Mashie:フランス語でクラブ)、ニブリックと「アイアンクラブセット」として種類が広がりました。

1900年より前のニブリック(PW)
The Golf Heritage Societyより


ゴルフバック

1st DIBSより

19世紀後半、ゴルフバックとして帆布が使用されていました。

初期のゴルフバッグの1つとして有名なのは、イングランド南西岸にある旧リンクスコース、「ウェストワード・ホ!」のクラブハウスを管理していた、ブライアント・アンドリュースによって作られたゴルフバックです。

元船員で帆布職人でもあったアンドリュースは、帆布の切れ端を縫い合わせ筒状にすれば、グリップを濡らすことなくクラブを持ち運べることに気付いたのです。

このゴルフバックは「キャリア(Carrier)」という商品名で、1981年にイングランドで販売されました。なんとこのキャリアはスタンド(足)付きのゴルフバックだったので自立することができる画期的なものでした。



アランの残した空席

アラン・ロバートソンが人類初、セントアンドリュースのオールドコースで80切りを達成したのが1,858年のことでした。

翌年、肺炎により44歳の若さで亡くなり、その死はゴルフ界に衝撃を与えました。葬儀には、オールド・トム・モリスも含め400人以上が参列し、彼の師であるアランの死を悼みました。

しかし、ロバートソンの死によって新たな始まりが訪れます。彼の空席を埋めるように、新たなチャンピオン・ゴルファーを見つけることが決定され、それが全英オープンの創設につながったとされています。

当時のスコットランドでは、オールド・トム・モリスを筆頭に、ウィリー・パークなど腕の立つゴルファーの成長が目立つようになります。

1852年、セントアンドリュースでは鉄道が開通し、線路は16番ホールのそばを走っていました。交通手段の発達をきっかけに、ゴルファー達は各地を移動しながらゴルフを楽しむようになりました。


これは1936年オールドコースの写真


また、逸話では、1869年、当時セントアンドリュースのグリーンキーパー兼専属プロであったオールド・トム・モリスは、15番ホールのバンカーを埋めようと考えていたところ、かつてこの地域を治めていたサザーランド公爵家のA.G.サザーランドという人物に訴訟を起こすと脅迫されたなんて話もあります。

サザーランドによって守られた「サザーランドバンカー」は、20世紀にサザーランド家の支援を受け再建されたこともあり、今日でもこの名前で呼ばれ続けています。




続く…


<参考資料>

The Story of Golf

The Open

Golf Monthly

Britannica


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